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菅原神父様、一場神父様よりメッセージUpdated Mar 29 2020

菅原神父様より

ミサができない状況が続いておりますので、毎日ミサの福音についてのコメントを下記ブログで配信しています。活用いただければ幸いです
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一場神父様より 3/29

洛東ブロックの皆様 私たちは、新型コロナウィルス感染症の世界的感染拡大という困難な時を生きています。今年の聖週間・復活祭は、共同体として皆が集まって祝うことができません。しかし、私たちは、心を一つにして祈りことができます。互いに離れていても、同じ福音を分かち合うことができます。教会とは、今祈っている私たちのことです。主イエスの福音を分かち合い、各々が置かれている場所で福音を生きている私たちのことです。こうした困難な時だからこそ、私たち教会は、キリストの救いのしるしとして生きていくよう求められているのです。

聖週間・復活祭、特に、「主の晩さんの夕べのミサ」(4月9日)から「復活の主日」(4月12日)の晩の祈りまで続く「聖なる過越の三日間」は、私たちにとって最も大切な時です。過越とは、死からいのちへ移っていくことです。物質的に豊かな地で奴隷状態に置かれ、愛する自由、祈る自由、生きる自由、いのちを生かし合う自由を奪われた人たちが、私たちがそこを離れて旅を始めることです。愛し合う自由、賛美と感謝をささげる自由、いのちを生かし合うことで本当の意味で生きる自由を得るために、新たな地を求めて旅を続けることです。

聖週間は、4月5日の受難の主日から始まります。この主日、私たちは、マタイ福音書が伝える受難のキリストに出会います(マタイ27・11ー54)。イエスは、十字架上での死を前にして、大声で叫びます。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」この叫びは、信頼の祈り、連帯の祈りです。私たちは、苦しい時に苦しいと、悲しい時に悲しいと、神に叫びをあげてよいのです。救いは、自分の苦しみや悲しみを打ち明けるところから始まります。神の前で、偽りの自分を演じなくてもよいのです。これこそ、信頼の祈りです。そして、私たちは、イエスの叫びを耳にする時、苦しみや悲しみにあるのは、自分だけではないことに気づきます。様々な苦しみや悲しみを抱える仲間がいることに気づきます。共に祈ることができるようになります。共に祈ることで、私の苦しみが私たちの苦しみとなり、他者の悲しみが自分の悲しみとなります。新型コロナウィルス感染症による苦しみや悲しみの中にある私たちは、この苦しみや悲しみを私たち皆の苦しみや悲しみとして体験し、共に祈ります。心からの叫び声を上げて祈ります。神が聞き入れて下さることを信じて祈ります。イエスは、自分だけを救おうとしませんでした。十字架から降りることで、苦しみや悲しみから目を背け、偽りの喜びに逃げませんでした。私たちも、信頼と連帯の祈りをもって、十字架のキリストに従っていきたいと思います。苦しみや悲しみを共にしながら歩んでいきたいと思います。

9日の晩、主の晩さんの夕べのミサがささげられます。聖体が制定された最後の晩さんを記念するミサです。福音(ヨハネ13・1ー15)は、弟子たちの足を洗うイエスの姿を伝えています。聖体は、キリストの体です。イエスは、その体をもって、弟子たちの足を洗いました。弟子たちの足を洗うキリスト、身を低くして仕えるキリスト、これが聖体です。私たちは、この聖体を分かち合うよう招かれています。身を低くして仕えるキリストを分かち合った私たちは、互いに身を低くして仕え合うようになります。そして、仕え合う私たちが、キリストの体となります。私たちは今、「すべてのいのちを守るため」というテーマで、福音を生きています。互いに身を低くして仕え合う時、私たちはいのちを守り合うことになります。いのちを守るとは、上からいのちを救ってあげるということではなく、下からいのちを支え合うということだと思います。この困難の時、私たちは身を低くしていのちを守りたいと思います。新型コロナウィルス感染症を正しく、謙虚に恐れ、自分さえ助かればいいという思いを捨て、これ以上感染拡大をしない努力を、身を低くして続けていきたいと思います。身を低くして仕え合うことで、キリストの体となっていきたいと思います。

10日の聖金曜日、私たちは、ヨハネによる主イエス・キリストの受難(ヨハネ18・1?19・42)によって、弟子たちを愛し抜かれた主の受難を思い起こします。十字架上での、主の最後の言葉は、「成し遂げられた」でした。すべてのいのちを愛し抜くことが、十字架上で成し遂げられたのです。ここで、ローマ総督ピラトに向けられた、イエスの次の言葉が思い起こされます。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしが…引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」この世の国では、富や権力、武器によって、いのちの傷つけ合いが起こっています。しかし、イエスの国では、すべてのいのちが守られます。すべてのいのちの生かし合いが実現します。最も悲惨な死をもたらす十字架の上で、すべてのいのちが生きるための道が示されたのです。新型コロナウィルス感染症がもたらす困難の中にある私たちは、この道、すべてのいのちを生かす道を歩むよう招かれています。忍耐と寛容、互いを思いやる優しさ、マスクや消毒薬の分かち合いといった道を歩むよう、十字架上の主イエスによって励まされいます。

11日の晩から、復活の主日が始まります。復活の聖なる徹夜祭では、マタイの福音(マタイ28・1ー10)が読まれます。イエスの墓を訪れた婦人たちに天使は言います。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。」そして、イエス自身が、婦人たちに語りかけます。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」今年の復活祭は、去年までの復活祭と違います。教会に行っても、復活のろうそくが灯るのを見ることができません。主の復活を喜び讃える歌声も聞こえません。まるで、主がおられないかのようです。しかし、恐れることはありません。主は、生きておられます。生きておられ、今、ガリラヤで福音を分かち合っておられます。ガリラヤ、そこは、主との新たな出会いの場です。当たり前のように毎年繰り返してきた復活祭が、新たにされる時です。私たちはそれぞれ、異なった場所で復活祭を迎えます。私たちが復活祭を迎える場所一つ一つが、復活の主との新たな出会いの場、ガリラヤです。私たちが教会に集える日が再び来た時、それぞれのガリラヤでの復活の主との出会いを分かち合いましょう。私たちの分かち合いの一つ一つが、新たな福音、主イエス・キリストが生きておられるという福音となることを信じて…

12日、私たちは、ヨハネの復活物語(ヨハネ20・1ー9)によって、再び復活の喜びを味わいます。この物語の中で、ぺトロの体験が次のように語られています。「彼〔シモン・ぺトロ〕は墓の中に入り、亜麻布が置いてあるのが見えた。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。」亜麻布は、イエスの遺体を包んでいた布です。復活は、一瞬の出来事ではありませんでした。イエスは、復活するために、死からいのちに移るために、亜麻布の束縛を必死に解き、新たな歩みを始めるために、頭の覆いを取り除きました。復活は、時間がかかることです。忍耐が求められることです。時には、苦痛が伴います。墓の中で横になっていた方が、心地よいかもしれません。しかし今、私たちは、イエスと共に復活するように招かれています。時間をかけて復活するように励まされています。新型コロナウイルス感染症の世界的感染拡大の終息まで時間がかかると思います。その間、私たちは、忍耐が求められ、細かな、丁寧な対応が求められます。すべては、いのちを守るためです。復活のいのちを分かち合うためです。復活の喜びを味わいながら、互いに祈り合いながら歩んでいきましょう。

私は、復活の月曜日、13日に京丹ブロックに赴きます。2013年4月1日から7年間、洛東ブロック担当司祭として、皆様と歩んで来ました。洛東ブロックを去るにあたり、ブロックの皆様お一人お一人に、心から感謝申し上げます。今、私たちは、困窮な時にあります。しかし、私たちには、出会う人すべてと分かち合うべきいのちが与えれています。復活の主からいただいている豊かないのちです。このいのちを分かち合うことが、置かれた場所でこつこつと分かち合うことが、今年のテーマである「すべてのいのちを守るため」を生きることだと思います。まず、自分のいのちを大切にして、いのちの分かち合いを続けていきましょう。皆様のためにお祈りしています。

2020年3月28日 洛東ブロック担当司祭 一場 修


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