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一場神父様よりメッセージUpdated Mar 21 2020

一場神父様より

新型コロナウィルス感染症の影響により、ミサ休止期間が4月 3日まで続くこととなりました。そこで、洛東ブロックのモデ ラトールとして、四旬節を過ごしておられる皆様に、以下のメッ セージをお伝えしたいと思います。よろしくお願い致します。

洛東ブロックの皆様 今年の京都教区の福音宣教のテーマは、「すべてのいのちを守 るため」です。去る2月29日のブロック四旬節黙想会で、私 は、このテーマで講話をいたしました。フランシスコ教皇訪日 の際の講話から、いくつかの言葉を分かち合いました。
「すべてのいのちは、つながっている。つながっていく。 過去、現在、未来とつながっていく。さまざま違いを超えてつ ながっていく。違いによってつながりが豊かになっていく。こ うして、宇宙規模でつながりが広がり、深まっていく。すべて のいのちを守るために、こうしたつながりを守っていこう。」 私は、教皇のメッセージをこのように受け止めています。
今、私たちは、新型コロナウィルス感染症の広がりの中で、い のちを守る努力をしています。自分のいのちを守るのみならず、 まわりのいのちを守るために、マスクを着用し、入念に消毒を しています。自分の思い通り、望み通りに過ごすことを控えて います。そうしなければ,すべてのいのちを守ることはできな いと深く悟っています。つながりを守りながら、すべてのいの ちを守るために、様々な犠牲をささげなければならないことを 実感しています。そして、互いのいのちを思いやることで、い のちのつながりを強めることで、今直面している困難を乗り切 ろうとしています。
今年の四旬節主日の福音は、洗礼の恵みを思い起こさせる内容 となっています。洗礼の恵み、それは、いのちのつながりです。 いのちの神とのつながり、いのちである神とのつながり、神に 生かされ、愛されているすべてのいのちのつながり合い。こう したいのちのつながりを体験させる恵みが、洗礼であると言え ます。

  • 1日、第一主日の福音(マタイ4・1ー11)は、 イエスが荒野で悪魔の誘惑を受ける物語でした。悪魔の誘惑、 それは、地球環境、隣人、そして、神さえも自分の思い通りに なる、思い通りに利用することができる、思い通りにすること で幸福になることができるという思いです。私たちは、時とし て、利用価値があるという理由だけで何かと、誰かとつながっ ていないでしょうか。こうしたつながりは、まったくの偽りで あり、いのちのつながりを深く傷つけるものであるとして、イ エスは徹底して拒絶されます。
  • 8日、第二主日の福音(マタイ17・1ー9)は、 十字架の道を歩み始められたイエスが、イエスのいのちが輝く 場面を伝えていました。このいのちの輝きに、モーセとエリヤ が加わります。いのちの道である律法を表すモーセ、いのちの 回復を伝える預言者を表すエリヤ、いのちの完成であるイエス が、真のいのちを分かち合います。そして、私たちも、このい のちの分かち合い、いのちのつながりに加わるよう励まされま す。様々な苦しみ、悲しみ、痛みを抱えている私たちが共に歩 む時、十字架の道を共に歩むイエス、私たちは真の、いのちの つながりを生きることになります。
  • 15日、第三主日の福音(ヨハネ4・5ー42)は、 「水」について、洗礼の水について教えていました。水がなけ れば、私たちは生きていけません。水は、いのちの支えです。 そして、水は、私たちを清めます。水は、いのちを新たにしま す。水は、いのちのほこりを洗い流し、再び生きていく力を与 えます。洗礼を受けた私たちの中で、この水、いのちの水がわ き出ています。私たちは、ウィルス感染防止のために手を洗い ます。丁寧に時間をかけて洗います。私たちは手を洗う時、心 も洗いたいと思います。生かされている喜びを、生かし合う喜 びを傷つけるウィルスを、いのちのつながりを汚すウィルスを、 洗礼の水によって洗い流したいと思います。
  • 22日、第四主日の福音(ヨハネ9・1ー41)は、 「見える」ことの意味を考えさせます。私たちには、ウィルス が見えません。今、見えないことの不安や恐れを実感していま す。そして、見えないからこそ注意深くなり、慎重になります。 いのちも、いのちのつながりも、肉眼では見えません。だから、 私たちは、いのちに対して注意深くならなければならないと思 います。いのちのつながりを傷つけないように慎重にならなけ ればならないと思います。そして、私たちは、洗礼によって、 いのちを、いのちのつながりを見る力を与えられています。見 えないいのちを、見えないいのちのつながりを、キリストがら 与えられた愛を生きることで見えるようにする力をいただいて います。この福音の登場する生まれつき目の見えない人は、自 分が癒されることで,神の愛を見えるようにしたのです。自分 が見えるようになっただけでなく、まわりを見えるようにした のです。困難な状況にある今こそ、私たちは、神の愛を見える ようにしたいと思います。
  • 29日、第五主日の福音(ヨハネ11・1ー45)は、 ラザロの復活の物語です。「ラザロ、出て来なさい。」墓の中 いるラザロへのイエスの、この呼びかけは、洗礼の時、私たち が受けた呼びかけでした。そして、私たちは今も、呼びかけら れています。「墓から出て来なさい」と。墓とは、いのちのつ ながりが失われた状態であるといえます。教皇フランシスコが、 「物質的には豊かでありながらも、孤独に支配されて生きてい る」と表現している状態であるといえます。今、私たちは、外 出を控えたり、他の人と交わることを避けがちになっています。 マスクによって、お互いの顔が見えなくなっています。感染防 止のためには、いたしかたないことです。しかし、それは身体 的な側面のことであって、いのちのつながりを断つことを意味 するものではありません。私たちには、様々な連絡方法があり ます。そして何よりも、私たちは、互いのことを思い出して、 祈り合うことができます。私たちが、祈り合う時、そこに復活 のキリストがおられます。互いに思いやり、心配し合い、祈る 時、私たちは、墓の中にいません。孤独という墓に留まらず、 祈りによる愛のつながりの中で、この困難な状況を生きていき たいと思います。

すべてのいのちを、自分のいのちだけでなく、まわりの人のい のちも、新型コロナウィルス感染症から守る努力を続けていき たいと思います。すべてのいのちが守られるよう、心から、精 一杯祈りたいと思います。そして、「出て来なさい」というイ エスの招きに応えて、私たちの祈りの家で、主の復活の喜びを 祝えるよう、一日も早い終息を願いたいと思います。皆様のた めに、お祈りしています。

2020年3月16日 洛東ブロック・モデラトール 一場 修


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