桃山教会

年間第14主日説教父への賛美

菅原神父様のブログ「くまたくんの忘れない場所」の音声配信を文字起こしをしてくださったものです。

  • 2023年7月9日
  • 福音箇所
  • マタイ福音書11章25~30節
  • 幼子のようなものにお示しになりました。(マタイ11:25)

 「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。」本当に、素直に心に響いてくる美しい言葉だなと思います。そして、できることなら、この私も、もうつまらないプライドとか虚栄心だとかをきれいさっぱり捨て去って、幼子のような者になりたい。今何が一番欲しいのかと言ったら、もうお金でもないし、名誉でもないし、ただ素直な心、幼子のような心、それをいただきたいものです。幼子が、全く安心しきって、何の心配もせずに、親に抱かれている。そんな風に、神様を信頼する安らぎ。それは、本来私たち誰にでも与えられているものに違いありません。ただそれに気がつかない。あるいは、うすうす気づいていても、すべてをそれに委ね切れない。まだまだ、神様以外のものによって自分を幸せにしようとする。未練を断ち切れない。それが、私たちの姿ではないでしょうか。  私は20数年前に京都に来て以来、何かに行き詰まったり、人生の岐路に立たされたような時、いつも東山の知恩院の一番奥まったところにある法然上人のお墓に行きました。その前庭には、法然上人が亡くなる2日前に書き残した、「天下の名文」とも言われる「一枚起請文」が書かれた大きなパネルも、立てられています。「智者のふるまいをせずして、ただ一向に念仏すべし」というその言葉は、教養や、知識や、学問は、往生のために何の役にも立たない。むしろ、妨げにさえ、なる。だから、愚かさに立ち戻って、ただ念仏を唱えればいいのだ。これは「愚かに還る」、「還愚(げんぐ)」ということで、法然の教えの根幹です。まさに、今日のイエス様の言葉そのものです。いつもその「一枚起請文」の前にたたずむと、「自分はいつまで何をかっこつけてるんだ。何一つ知らないんだから、素直に、愚かさを生きればいいだけじゃないか。」そんな思いが溢れてきます。本当に必要なことは、もはや、本を読んだり勉強したりすることでもないし、人間性を磨いたりすること、ですら、なくて、ただ、愚かさに還ること、幼子のようになること。それは、気づくんですが、でも、どうしたらそうなれるのかが、分からなくなっています。  イエス様、今日、こう言ってくださいます。「疲れた者、重荷を負う者は誰でも、わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。」いきなり「幼子のようになれ」と言われても、どうしていいか分かりませんが、「とにかく、イエス様のところに行けばいい」「イエス様と一緒にいればいい」そのことを語ってくれている、優しい言葉です。  「愚かに還る」ということ。これもチャットGPTには、人工知能には、決してできない、人間だけができることに、違いありません。智者のふるまいをせずして、ただイエス様に手を合わせで過ごす。そんな時間を、大切にしたいと思いました。

第一朗読 ゼカリヤ書 9:9-10
(主は言われる。)娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ろばの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ 諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ 大河から地の果てにまで及ぶ。


第二朗読 使徒パウロのローマの教会への手紙 8:9、11-13
(皆さん、)神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。 それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。


福音朗読 マタイによる福音 11:25-30
そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

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