桃山教会

年間第12主日説教誰を恐れるべきか

菅原神父様のブログ「くまたくんの忘れない場所」の音声配信を文字起こしをしてくださったものです。

  • 2023年6月25日
  • 福音箇所
  • マタイ福音書10章26~33節
  • 髪の毛までも一本残らず数えられている。(マタイ10:30)

 以前、あるシスターが、こんなお話をしてくれました。教会学校で、子どもたちに、神様の絵を描いてもらったら、ある子が、神様が、雲の上から望遠鏡を使って、地上の人々を覗き込んでいる、そんな絵を描いたそうです。つまり、その子は、ミサの中でいつも歌われていた「世の罪を除きたもう主」というフレーズを覚えていて、神様が、世の人々を覗き込んで、「罪を犯したらとっちめてやる」みたいに監視の目を光らせている、そんなイメージでその絵を描いた、というわけです。十字架上でご自分を犠牲にしてまで、私たちの罪を取り除いてくれた、そんな慈しみ深い主が、まるで恐ろしい監視役みたいに誤解されていた。というちょっとシニカルな話でもありますが、でも、神様が、私たちの罪を覗き込んでいる。あながち、悪くは、ないんじゃないでしょうか。私のすべてを片っ端から全部知り尽くしている。人の目は騙せても、お天道様も騙せても、決して、神様の目は騙せない。もう全部バレバレになってるって、これは、恐ろしいというよりも、むしろ、逆に、すごく晴れやかな気持ちにさせられないでしょうか。  今日の福音で、イエス様は、「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」そう言っています。私たちは、どうしても自分を隠してしまう。よく見せようとして飾ってしまう。だから、自分の正体がバレたらどうしようってどこかで怯えているものです。でも、神様には、全部覗かれている。醜くて汚い自分、弱くて情けない自分、一つ残らず、全部、バレバレ。だからもう、何も隠す必要もない。飾る必要もない。ありのままの自分でいるだけ。隅の隅まで全部、神様は、じろじろと覗いてくれていて、でも、それで、私を裁くのではなくって、かえって、すべての罪をお見通しの上で、そっくりそのままの私を、そっくりそのまま愛してくださっている。これこそ、すごい「福音」ではないでしょうか。  キリスト教は「啓示宗教」と言われますが、啓示というのは英語だと「revelation」、「ヴェールがはがされて隠れていたものが露わにされる」という意味合いです。私の罪が、弱さが、かっこ悪さが、全部、明らかに示される。これもまた、素晴らしい啓示であり、福音のはずです。「もう何も隠さなくてもいいんだ」って思えることこそ、罪からの解放なのですから、結局、「罪を覗きこまれる」ことが、即、「罪が取り除かれる」、という事と同じ、なわけで、そう考えると、実は、例の子が描いた絵って、鋭く真実をついているなと思えてきます。  自分の心の奥底の、悪や罪まで、全てばれている。そのことが救いなのだ、という神秘を、見つめてまいりましょう。

第一朗読  エレミヤの預言 20・10-13
エレミヤは言った。わたしには聞こえています。多くの人の非難が。「恐怖が四方から迫る」と彼らは言う。「共に彼を弾劾しよう」と。わたしの味方だった者も皆わたしがつまずくのを待ち構えている。「彼は惑わされて我々は勝つことができる。彼に復讐してやろう」と。しかし主は、恐るべき勇士としてわたしと共にいます。それゆえ、わたしを迫害する者はつまずき勝つことを得ず、成功することなく甚だしく辱めを受ける。それは忘れられることのないとこしえの恥辱である。万軍の主よ正義をもって人のはらわたと心を究め見抜かれる方よ。わたしに見させてください。あなたが彼らに復讐されるのを。わたしの訴えをあなたに打ち明けお任せします。主に向かって歌い、主を賛美せよ。主は貧しい人の魂を悪事を謀る者の手から助け出される。


第二朗読  使徒パウロのローマの教会への手紙 5・12-15
皆さん、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。しかし、アダムからモーセまでの問にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。


福音朗読 マタイによる福音 10・26-33
そのとき、イエスは使徒たちに言われた。「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」

過去の主日説教

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