桃山教会

年間第11主日説教十二人の使徒

菅原神父様のブログ「くまたくんの忘れない場所」の音声配信を文字起こしをしてくださったものです。

  • 2023年6月18日
  • 福音箇所
  • マタイ福音書9章36~10章8節
  • 収穫は多いが働き手が少ない。(マタイ9:37)

 もう随分前から、長大なキリスト教史の本を読み続けていて、今やっと、宗教改革の時代まで来ました。その頃の教会って、もう本当にいろいろ酷かった。「教会ってこの程度のものだったんだ」と、がっかりしたり、でも、ある意味では、「ああ、この程度でいいんだ」って、逆に、ほっとしたり、しています。ただ、そんな酷さ、にもかかわらず、「やっぱり、信仰というのは本物なんだ。神様の御業なんだ」そう感動させられることも、歴史は、多々証明してくれています。  例えば、その頃、教会の多くの上級聖職者たちは、霊的なことなどそっちのけで、贅沢な暮らしをして、私利私欲を求めて権力闘争に明け暮れてもいた。そういう時代。下級の聖職者たちは、司祭としての収入だけでは足りなくて、副業をしながら、都市部だったら書記や画家や医者など、地方だったら農業や漁業や庭師などをしながら、生活を成り立たせて、司祭をやっていたそうです。彼らに出世の望みなどはなくて、一生涯貧乏暮らしなのは目に見えていた。それにもかかわらず、司祭になることを希望する若者は、本当に、たくさん、いたそうです。貧しくみすぼらしい生活をしながら、司祭をしている人たちの、生き様を通して、溢れ出してくるキリストの福音が、多くの青年たちを惹き付けてやまなかった、ということでした。  当時は、きちんとした司祭養成のプログラムがあったわけでもなく、教会当局に模範的な聖職者がいることなども、残念ながら期待できなかった。そういう状況だったにもかかわらず、どの地方にも、名前も残らないような誠実な司祭たちが溢れていた。そういう事実があったというわけです。歴史の表舞台に出てくる意味での教会は、堕落を極めていたかもしれないけれども、でも、やはり、そこに、神様の御業が、目立たない人たちを通して、生き生きと生きていた。ここに、とても感動させられるし、私たちがいただいている、キリストへの信仰、その本質が、どれだけ素晴らしいものであるのか、そういう見事な証になっていると思います。「財産も地位も、安定した生活も要らない。どんなに貧しく苦労しても、キリストのように生きたい」そんな思いに駆られた青年が、連綿と続いていたということ。ここに尊い真実が、あるんじゃないでしょうか。  今日の福音でイエス様、こう言っています。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために、働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」収穫のための働き手は、神様、ちゃんと送ってくださいますよ、ということです。で、この働き手というのは、決して司祭や修道者のことだけでは、ないはずです。そして、何より、「収穫は多い」わけです。福音を待っている人が、この世界には、まだまだ数限りなくいます。  だから、イエス様のおっしゃる通り、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に祈りましょう。

第一朗読  出エジプト記 9・2-6
その日、イスラエルの人々はシナイの荒れ野に着き、荒れ野に天幕を張った。イスラエルは、そこで、山に向かって宿営した。モーセが神のもとに登って行くと、山から主は彼に語りかけて言われた。「ヤコブの家にこのように語りイスラエルの人々に告げなさい。あなたたちは見たわたしがエジプト人にしたことまた、あなたたちを鷲の翼に乗せてわたしのもとに連れて来たことを。今、もしわたしの声に聞き従いわたしの契約を守るならばあなたたちはすべての民の間にあってわたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」


第二朗読  使徒パウロのローマの教会への手紙 5・6-11
皆さん、実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。


福音朗読 マタイによる福音  9・36-10・8
そのとき、イエスは、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」

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