桃山教会

三位一体の主日 説教三位一体の主日

菅原神父様のブログ「くまたくんの忘れない場所」の音声配信を文字起こしをしてくださったものです。

  • 2023年6月4日
  • 福音箇所
  • ヨハネ福音書6章16~18節
  • 独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ3:16)

 今日は「三位一体」の主日です。「第一朗読」では、神様が、モーセに対して、ご自分のことを「憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く慈しみとまことに満ちたもの」そんなふうに自己紹介をしています。そして「福音朗読」の方は、イエス様がニコデモに「神は独り子をお与えになるほど世を愛された」そういうことを語っています。どちらも、「神が三位一体だ」という今日のテーマと、どう関係してるんだ、と、ちょっと首をひねりますが、結局、どちらとも「神が愛と慈しみに満ちた優しい方なんだ」そのことが人々に示されている、という場面です。  で、これは、私が先日、奈良の「薬師寺」を訪れたときのことです。広大な境内の片隅に「不動堂」という小さなお堂があって、30人ほど集まって、お坊さんのお話を聞いていました。すると、いきなり、お寺の人が、お坊さんの真ん前を堂々と横切りながら、お餅を配り始めました。お餅だけで終わるのか、と思ったら、今度は、他の人が、薬師寺オリジナルのペットボトルの水も配り出して、その後も、お赤飯、おせんべい、お菓子、さらには袋に入ったお塩と、もう次から次へと配られて、小さなお堂はごった返して、しかも、配っている人たちは「これはエゴマで焼いた餅ですよ」とか、「お供えのお菓子です。もう一つどうぞ」とか、「このお塩はご利益ありますよ。疲れたときに舐めるといいですよ。」などと、まるで、話を聞くのを妨害するかのように、いろいろ世話を焼いてくれて、もう誰も、お坊さんのお話を聞けるような状況ではなくなっていきました。でも、多分、ここでは、いつもこんな調子で、縁日のご法話が行われているんでしょう。お坊さんは、平然と話を続けていました。「ご法話をじっくりと聴いて、心の安らぎや救いをいただきたい」という人間的な事前の予測は、この、お餅やお赤飯のひっちゃかめっちゃかによって、見事に裏切られる。けれども、その場からは、そんな、人間的な、せせこましい期待を、遥かに超越する、予測以上の、期待以上の安らぎや救いが溢れ出てきていました。「焼きたてのお餅おいしい」「この妨害の中笑顔で話し続けるお坊さんすばらしい」そんな、期待できなかったたくさんの思いが、心の中に生まれることになります。  今日の「第一朗読」や「福音朗読」も、実は、期待が裏切られた、期待を遥かに超えていた、という場面なんです。その期待というのは、モーセにしろ、ニコデモにしろ、「厳しいことを言われて叱られると思った」という変な期待。例えば、さっきの薬師寺の話で言えば、「お坊さんに、いい加減にしろ、餅なんか食ってないで静かに話を聞け、と怒鳴られる」そんな期待、なんですが、でも、神様から出てきた言葉は「神は慈しみと愛に満ちている。独り子さえ与えてくれる」餅だけではなくて、赤飯も水もお菓子もお塩も、どんどん与えてくれる、みたいな。  とにかく、「三位一体」というのは、何よりも神様の啓示です。人間が考え出したものではありません。人間の期待など遥かに超える、この「三位一体」の神の愛と慈しみ、理解も予測も不可能。でも、私たちは、いつも、それに、とにかく、すがりついていましょう。

第一朗読 出エジプト記 34:4-6、8-9
(その日、)モーセは前と同じ石の板を二枚切り、朝早く起きて、主が命じられたとおりシナイ山に登った。手には二枚の石の板を携えていた。主は雲のうちにあって降り、モーセと共にそこに立ち、主の御名を宣言された。主は彼の前を通り過ぎて宣言された。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、(た者)」モーセは急いで地にひざまずき、ひれ伏して、言った。「主よ、もし御好意を示してくださいますならば、主よ、わたしたちの中にあって進んでください。確かにかたくなな民ですが、わたしたちの罪と過ちを赦し、わたしたちをあなたの嗣業として受け入れてください。」


第二朗読 コリントの信徒への手紙 13:11-13
兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。すべての聖なる者があなたがたによろしくとのことです。 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。


福音朗読 ヨハネによる福音書 3:16-18
>神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。

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