桃山教会

聖霊降臨の主日 説教聖霊降臨

菅原神父様のブログ「くまたくんの忘れない場所」の音声配信を文字起こしをしてくださったものです。

  • 2023年5月28日
  • 福音箇所
  • ヨハネ福音書20章19~23節
  • 私もあなたがたを遣わす。(ヨハネ20:21)

『風立ちぬ』という堀辰雄の小説があります。死の病に侵された婚約者と、高原のサナトリウムで過ごす主人公が、死と向き合いながら、死を超えるいのちを生きる、そんなテーマが描かれています。その婚約者が亡くなってしまった後、主人公が村の教会のミサに訪れる場面が描かれていて、この作品がキリスト教的な世界観とつながっていることが見えてきます。  小説の冒頭に「風立ちぬ いざ生きめやも」という有名なフレーズが出てきます。これは、フランスの詩の一節を引用したものですが、そのまま訳すと「風が吹いてきた。さあ生きていかなくっちゃ。まあ元気出していこう」そんな感じですが、堀辰雄は、それを、「生きめやも」つまり「生きるのか、いや、死ぬんだろうな」みたいな、生も死も両方含んだような日本語に訳しています。婚約者が病気で死んでいくというこの小説ですが、伝わってくる印象は、「死んじゃだめだ。早く病気を治して、元気に生きていこうよ」でもないし、「婚約者を失ったけどがんばって生きていこう」でも、ないんです。「生きていこう」じゃないんですね。むしろ、「死があるからこそ初めて見えてくるいのち」この小説は、読者をそのいのちの方へと誘ってくれています。だから、『風立ちぬ』というタイトルが、いみじくも示してくれていますが、この小説の本当の主人公は、実は「風」。キリスト教的に言えば「聖霊」。そんな気さえ、してきます。「聖霊」、「プネウマ」、それは「風」という言葉ですよね。「風立ちぬ」、「風が吹いてきた」、「聖霊が降った」。それが、今日の「聖霊降臨」ですが、でも、「風が吹いてきたから、聖霊が来たから、もっと元気に生き生きと幸せに生きていけるぞ」というのとは、少し違う気がします。もちろん、今日の「使徒言行録」が描いているような、激しい風が炎とともに降ってきて、もうこんなエネルギーをいただいて、みんなパワー全開だ、みたいな、ダイナミックな聖霊降臨もいいですが、一方の、今日の「ヨハネ福音書」の方の、イエス様が弟子たちにそうっと息を吹きかけた、ひっそりとした、静かな、誰も気付きさえしないような聖霊降臨も、また、大切にしたいものです。「元気に頑張って生きてやるぞ」って、全然そんな状態じゃなくても、病に倒れて死んでいくことになっても、この世で幸せを味わえていなくても、それでも、今のこの自分の命をしっかりと吹き抜けてくれている、微かな風を、意識することができたらと思います。  復活したイエス様が弟子たちに息を吹きかける。この「ヨハネ福音書の聖霊降臨」と呼ばれている出来事が起こったのは、日曜日の夕方です。その3日前の木曜日の「最後の晩餐」の席で、イエス様は、弟子たちに「聖霊を送りますよ」そう約束しています。つまり、木曜日のその時点では、まだ聖霊を吹きかけることはできなかった、という神秘がここにあります。金曜日の苦しみと十字架の死が、どうしても必要だった、わけですね。  いずれにしても、イエス様が十字架で死んで、過越の神秘を完成してくださった、今となっては、いつも、私たちを聖霊が吹き抜けています。その、今、この瞬間ごとの「風立ちぬ」に、心を向けてまいりましょう。

第一朗読 使徒言行録 2:1-11
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、〝霊〟が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギァ、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」


第二朗読 使徒パウロのガラテヤの教会への手紙 5:16-25
皆さん、霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。


福音朗読 ヨハネによる福音書  20:19-23
その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

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