桃山教会

復活節第6主日説教 説教聖霊を与える約束

菅原神父様のブログ「くまたくんの忘れない場所」の音声配信を文字起こしをしてくださったものです。

  • 2023年5月14日
  • 福音箇所
  • ヨハネ福音書14章15~21節
  • あなたがたのところに戻ってくる。(ヨハネ14:18)

 今日のイエス様のお話は、「聖霊がやってくる」そして、「イエス様ご自身がもう一度やってくる」この二つのことが合わさっています。「もう自分はいなくなるけれども別の弁護者、つまり、聖霊がやってきて、あなたたちと永遠に一緒にいてくれるから安心です。」と、イエス様そう言いつつも、でも、「聖霊だけに任せちゃおけない」とでも言うかのように、「私自身だってまたちゃんと戻ってきます」それもちゃっかり付け足しています。  それで、今日のこの二つのこと、一つは「イエス様はいなくなる。でも、聖霊がやってくる。」そしてもう一つは「イエス様はいなくなる。でも、また戻ってくる。」この二つ、共通点は、とにかく「イエス様が失われる」という体験です。これは、弟子たちの体験でもあり、そして、また、私たちも体験することです。「失われる」ここが、重大ポイントです。失われるからこそ、聖霊がやってくるし、イエス様も、もう一度やってきます。  あの、チャットGPTはあまりにも衝撃的なので、今日も話題にしますが、人間とAI、人工知能との決定的な違いは、きっと、「人間は忘れることができる」という点です。AIは、情報を常に知り尽くしているので「忘れる」ことができません。つまり、それは、一度忘れてしまったことをもう一度思い出す、というその時にだけ、やっと初めて本当に理解できる、という真理を、AIは決して体験できない、ということです。「忘れる」「失われる」「死ぬ」それがないと「復活」も「永遠の命」もない。ここにキリスト教的な真理がありす。  「宗教」という言葉はラテン語で「religio」これは「再びつなぐ」という意味で、「再びつなぐ」ためには、一度別れるということが、どうしても必要で、「放蕩息子」も「迷える小羊」も、一度失われた。だからこそ、本当に出会えました。私たちも、「神様を忘れてしまう」って、それは恐ろしく悲しいことですが、それでも、やはりそれは計り知れない恵みです。忘れるからこそ、思い出す。そして、思い出した時にだけ本当に出会えるというプロセスが、そこに実現するからです。英語の 「remind」「思い出させる」という言葉がいみじくも示していますが、私が努力して思い出すんじゃなくって、ふと何かが私に思い出させるわけで、主語は私ではなくて、言ってみれば、神様が主語ということです。これは記憶の「死と復活」という神秘で、何かちょっと、ゾクゾクしてこないでしょうか。それは、プルーストの『失われた時を求めて』という長い小説のテーマでもあって、「無意志的記憶」と言われますが、いつも持ち続けている知識によってではなく、忘れ去っていた過去が、全く予期しない形でふとよみがえってくる。そこで、プルーストは、永遠の命との出会いを体験していました。 イエス様が失われるという体験こそ、私たちに不可欠です。神様が分からない。イエス様と出会えていない。今が幸せだなんて思えない。それこそが、私たちが永遠の命にたどり着くことの確実な証拠です。だから、今は、イエス様が約束してくださった聖霊を待ち望みましょう。

第一朗読  使徒言行録 8:5-8、14-17
そのころ、フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた。群衆は、フィリポの行うしるしを見聞きしていたので、こぞってその話に聞き入った。実際、汚れた霊に取りつかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫びながら出て行き、多くの中風患者や足の不自由な人もいやしてもらった。8町の人々は大変喜んだ。 エルサレムにいた使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞き、ペトロとヨハネをそこへ行かせた。二人はサマリアに下って行き、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。人々は主イエスの名によって洗礼を受けていただけで、聖霊はまだだれの上にも降っていなかったからである。ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。


第二朗読  使徒ペトロの手紙 3:15-18
愛する皆さん、心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。


福音朗読  ヨハネによる福音 14:15-21
そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」

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