桃山教会

復活節第5主日説教 説教父への道であるイエス

菅原神父様のブログ「くまたくんの忘れない場所」の音声配信を文字起こしをしてくださったものです。

  • 2023年5月7日
  • 福音箇所
  • ヨハネ福音書14章1~12節
  • こんなに長い間一緒にいるのに私が分かっていないのか。(ヨハネ14:9)

 今、「社会を変えてしまう」と話題のチャットGPTですが、早速私も今日の説教を作ってくれるように、頼みました。そしたら、わずか数秒で作ってくれました。こんな感じです。「今日のイエス様の言葉は、イエス様がこの地上で語ってくれた最も深くて最も慰めに満ちた言葉です。それはまた、ご自分が地上を去ってゆく、その心の準備を弟子たちに促す言葉であり、また、ご自分がまことの神であることを弟子たちに示す言葉でもあったのです。うんぬんかんぬん。」とまぁ、こんな感じで、もうチャットGPTさえあれば、簡単に説教が作れる。  学問の領域だったら、盗作とか、剽窃とか著作権だとか、いろいろな問題が起こるでしょうけれども、ミサの説教というのは、基本的に、盗作だろうが、パクリだろが、肝心なのは「聴く人の魂を神様に導く」、そこですから、司祭が無理にオリジナルにこだわって、下手な説教を作るよりも、AIの考えた、聞きやすくて、的を得ている説教の方が、はるかに有益じゃないか、などと考えさせられました。いずれにせよ、こういう「時代が生んだ技術」というのは有効活用しなくちゃいけないなと思います。  ただ一方で、今日の福音の「わたしを見た者は父を見たのだ」というイエス様の言葉は、妙に迫ってきます。これは、弟子の一人フィリポが、イエス様に、「わたしに神様を見せてくれ」そう要求した、それに対してイエス様が「もう何言ってるんだ、フィリポ。こんなに長い間一緒にいるのに、まだ分かってないのか」って、例によって、ダメ出しをして、そして、「わたしを見たものが神を見たのだ」そう、諭しているわけです。こういういきさつですから、まず私たちは、フィリポの願い、「神様に会いたい」っていう強い願い、それがフィリポにあった、という、そこにこそ、一番注目しなくてはなりません。それで、チャットGPTに「神様に会いたいですか」と聞いてみると、「私は人工知能ですから、個人的な願望や信仰は持っておりません。」そう、塩対応されてしまう。だから、結局、AIは、素晴らしくて簡潔明瞭な説教を作れる、けれども、例えば、「わたしは道である」という今日のイエス様の言葉については、「私たちは善行や道徳的な生活によって天国への道を獲得することはできません。ただイエス・キリストを信じることによってのみ、父のもとに行くことができるのです。」そんな風に、まことに適切な模範説教を作ってくれていながらも、でも、AIは、この「イエス・キリストを信じる」ということができない。一方私たちは、AIのように、膨大深淵な聖書や神学の知識は持っていないし、素晴らしい文章力も持っていない、けれども、イエス・キリストを信じることができる。何かこの決定的な違い、私たちに与えられている「神様に会いたい」そう願うことができる、この途方もない恵み、これを、AIは、私たちに気づかせてくれます。  ただ、将来的には、「キリストを信じるAI」とかもできれば素晴らしいな、きっともっと良いお説教を作ってくれるだろうなぁとか、期待しています。

第一朗読  使徒言行録 6:1-7
そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、〝霊〟と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、使徒たちの前に立たせた。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた。こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。


第二朗読  ペトロの手紙 2:4-9
愛する皆さん、主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。」従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」のであり、また、「つまずきの石、妨げの岩」なのです。彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。


福音朗読  ヨハネによる福音 14:1-12
そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか>。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。」

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