桃山教会

復活節第4主日説教 説教羊の囲いのたとえ

菅原神父様のブログ「くまたくんの忘れない場所」の音声配信を文字起こしをしてくださったものです。

  • 2023年4月30日
  • 福音箇所
  • ヨハネ福音書10章1~10節
  • 門を通らないで他の所を乗り越えて来る者は強盗である。(ヨハネ10:1)

 私たち人間は、一人では生きていけません。共同生活を営むようにできている動物です。そして、そこには必ず牧者が必要です。私たちは、意識しているいないにかかわらず、いつでも、誰かに導かれて生きているものです。自分を導き、養い、守ってくれる牧者がいてくれる、ということです。ただ、この牧者というのは、大統領とか総理大臣とか王様とか、あるいは、先生とかお医者さんとかカウンセラーとか、はたまたお坊さんとか牧師とか神父とか、それも地上的な牧者という意味で、一役買ってはいるわけですが、でも、そういうのは、究極的な牧者たりえません。そういう人、たち、つまり、人間は、基本的にエゴイストです。政治家にしても、お医者さんにしても、カウンセラーにしても、宗教家にしても、慈善活動家にしても、結局は、自分がかわいい。最後の最後まで他者を愛し切ることができません。それは諦めなくてはなりません。それでその人たちを責めたりもできません。人間は神様ではないからです。かなり神様の愛に近いのは、子どもへの親の愛、かもしれません。神様は、私たちの完全な親。その愛で、完全な愛で、最後の最後まで、この私を愛し切ってくれます。私たちに牧者がいるというのは、まさに、そういう意味での牧者がいてくれる、ということです。羊のために命さえ捨ててくれる。それほどまでの完全な愛で、この私は、その牧者に愛されている。そこに目が開かれれば、どれだけ私は変わっていけることでしょうか。  今日の「第二朗読」の「ペトロの手紙」にこう書かれていました。「あなた方は羊のようにさまよっていましたが、今は魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻ってきたのです。」「監督されるなんて窮屈だ。羊みたいに従う生き方なんて嫌だ。むしろ私は一匹狼になりたい。」そう思うこともあるかもしれません。でもやっぱり、人間は、狼タイプではなくって羊タイプの生き物。そう造られているので、逆らえません。魚が地上で生きていくことが無理なように、人間は、「自分個人よりも大切だ」と思える共同体がないと、本当の意味で、生きていけません。そして、従順であること、自分を捨てて従うこと、そこにこそ、本当の幸せがあるし、また、そこにこそ、本当の自由や喜びもあること、いつか、そのことが見えてきます。羊のような弱い動物、群れていないとダメな動物、そして何より、牧者がいてくれないと話にならない動物、それがこの私、であること、素直に認めましょう。すべてはそこから始まります。幸せは、自分で掴み取るものなんかではありません。永遠の牧者に従うことこそが、幸せです。私たちには最高の魂の牧者、永遠の牧者、イエス様がいてくださるわけで、この恵みに感謝いたしましょう。  今日の「答唱詩篇」「詩篇23」「主は我らの牧者 私は乏しいことがない」心して歌いたいものです。

第一朗読  使徒言行録  2:14、36-41
五旬祭の日、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話した。「イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。41ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。


答唱詩編詩編23
主はわれらの牧者、わたしは乏しいことがない。


第二朗読  使徒ペトロの手紙 2:20-25
愛する皆さん、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。」ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。


福音朗読  ヨハネによる福音 10:1-10
そのとき、イエスは言われた。「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」

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