桃山教会

復活節第3主日説教エマオへの旅人

菅原神父様のブログ「くまたくんの忘れない場所」の音声配信を文字起こしをしてくださったものです。

  • 2023年4月23日
  • 福音箇所
  • ルカ福音書24章13~35節
  • 私たちの心は燃えていたではないか。(ルカ 24:32)

 目の前にあるものが見えない。私たちの人生って、いつもそんなものです。大切なものが、もう目の前にありありとあるのに見過ごしている。このことに、人は、実はとっくの昔に気づいていて、例えばメーテルリンクの『青い鳥』。「探していた青い鳥は自分の家にいた」というような物語が、たくさん語られています。でも、とっくに気がついているのに、相変わらず、人は、目の前の大切なものを見ていない。ここが深い、というか神秘ですね。  『夜と霧』の作者フランクルは、こんなことを言っています。「人は、人生に意味はあるのか、何のために生きるのかって、いつも、問いかけるけれども、そんなことで悩む必要はない。なぜなら、何もしなくても、もう既にあなたの足もとに人生の意味は絶えず送り届けられてきている。もう既に、あなたの人生は意味に満ち満ちている。人はただそれに目を開けばいいんだ。」そんなことを語っています。ただ目を開けばいいだけ。そうすれば、もう青い鳥が、人生の意味が、かけがえのないものが、目の前に、ちゃんといる、わけです。  今日の福音のエマオへ向かっていた二人の弟子は、ずうっと目の前にイエス様がいたのに、それに気が付きませんでした。でも、食卓について、イエス様がパンをさいた、その時に、目が開きました。目の前に、ずうっとイエス様がいた、そのことに気が付きました。どうして目を開くことができたのか。そのヒントを「ルカ福音書」は、教えてくれています。この二人は、道でイエス様と出会って会話を始めた。イエス様が聖書を語ってくれるのを、聞いた。そして、イエス様と食卓についた。この三つのこと。つまり、「祈り」「聖書」「ミサ」。絶えず祈り、聖書に親しみ、ミサに行ってパンを食べる。こうやって私たちの目は、開かれていきます。大切なものが、もう、今の自分の、退屈で面倒で困難なこの日常にありありと溢れている。人生の意味も、生きる目的も、フランクルの言うように、このありふれた毎日の中に、絶えず、送り届けられている。人生には意味が満ち満ちている。そういうことに、目が開かれていきます。  それにしても、今日のこのイエス様のやり方。何も知らないふりをして、二人の弟子に、全部喋らせておいて、その後で、ああなんてもの分かりが悪い奴らだって、おおいに嘆いてみせて、そして、こう言うんです。「メシアは苦しみを受けて栄光に入るはずだったのではないか」そんなことも分からんのか、この愚か者めが、みたいな言い方ですね。でも、それだけ強調すべきことです。「苦しみを受けて栄光に入る」「死から復活へ」ということです。私たちのこの日常の、闇が光です。苦しみが栄光です。十字架が復活です。死がいのちです。この平凡な日々。いつものこの人とのこの出会い。やるせない思いや、不安や葛藤、行き詰まり。それが、復活であり、もうそこには、意味が満ち満ちています。目を開かせていただき、今日の弟子たちのように、目の前にずうっとおられたイエス様に気づかせていただきましょう。だから、「祈り」「聖書」「ミサ」、大切にして、過ごしてまいりましょう。

第一朗読  使徒言行録 2:14,22-33
五旬祭の日、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。ダビデは、イエスについてこう言っています。『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない。だから、わたしの心は楽しみ、舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。 あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない。あなたは、命に至る道をわたしに示し、御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。そして、キリストの復活について前もって知り、『彼は陰府に捨てておかれず、その体は朽ち果てることがない』と語りました。神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。」


第二朗読  ペトロの手紙一 1:17-21
愛する皆さん、あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、「父」と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです。知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。キリストは、天地創造の前からあらかじめ知られていましたが、この終わりの時代に、あなたがたのために現れてくださいました。あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています。従って、あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです。


福音朗読  ルカによる福音 24:13-35
この日、すなわち週の初めの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

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