桃山教会

復活節第2主日説教見ないで信じる人は幸い

菅原神父様のブログ「くまたくんの忘れない場所」の音声配信を文字起こしをしてくださったものです。

  • 2023年4月9日
  • 福音箇所
  • ヨハネ福音書20章19~31節
  • 家の戸に鍵をかけていた。(ヨハネ20:19)

 毎年、復活祭の次の日曜日の、「復活節第2主日」は、「見ないで信じる」ということが、キーワードになっています。  今日の「第二朗読」のペトロの手紙に、こう書かれていました。「あなた方は、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせない、素晴らしい喜びに、満ちあふれています」。つまり、「必ずしも、キリストを見る必要はないのだ」と言われている。そこが、極めて重要、なんだと思います。で、この場合の「見る」というのは、単に、「この肉体の目で、目の前に現れた、復活したイエス様を見る」ということ、だけではなくって、例えば、「まるで天にでも昇るような、幸せな気持ちに包み込まれる」、といったような、いわば、感覚的な喜びを、体験する、そういったことも、含まれているはずです。そのような神秘的体験、宗教的な、恍惚状態、というのも、恵みとしていただけることはありますので、別に、全てが危険だ、まやかしだ、というわけでは、ありませんが、ただそれは、全ての人が体験できるようなものでは、ありませんし、また、そういう体験ができることが、信仰生活の目的、なのでもありません。神秘的な恍惚状態を体験するのが目的、だったら、宗教も、覚せい剤と同じことになってしまいます。むしろ普通、信仰生活というのは、おもしろくないものです。祈っていても、無味乾燥、退屈、雑念ばかりで集中できない、あるいは、教会に行くのもめんどくさい、ミサもつまらない、ってそんなことばかり、なわけで、そういう意味で、喜びは「見えない」わけです。そんな私たちに、イエス様はおっしゃいます。「見ないで信じる人は幸いである」。きっとこの言葉をイエス様から言われた時、トマスは、初めて悟ったと思います。自分が、弟子たちの中で、一人だけ復活のイエス様に会うことができずに、ふてくされていた、孤独だった、寂しかった、鬱々としていた。実は、その中でこそ、イエス様と、もうしっかりと、出会えていた。そして、喜び、だなんて決して思えなかった時間、それこそが、今日ペトロが言っていた、「言葉では言い尽くせない素晴らしい喜び」、そんな時間に、ほかならなかったこと。そのことを、悟ったはずです。きっと、この後、トマスは、たとえ、復活のイエス様と出会うような、神秘的な恍惚体験など二度とできなかったとしても、むしろ地道で、無味乾燥な宣教の日々が続いたとしても、人間的な深い苦しみや孤独にさいなまれる時間が、続いたとしても、それでも、「見ないで信じるものは幸い」という言葉が、いつも、トマスの一番深いところを、支え続けていたに違いありません。「見えないイエスを信じる」。もうそのことの意味を、知っているトマスは、忍耐の日々のうちに、「言葉では言い尽くせない喜び」、もちろんそれは、この世の楽しみや快適を伴う喜びとは、全然違いますが、その喜びを、見い出して、生き続けていったんだと思います。  信仰生活とは、というよりも、むしろ人生は、無味乾燥で、地道な歩みだし、苦しみや、悲しみに、満ちています。だからこそ、価値がある。そこでこそ、私たちは、復活のイエスと出会えています。「見ないで信じる」私たちは、幸いです。

第一朗読  使徒言行録 2:42-47
(信者たちは、)使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。


第二朗読  ペトロの手紙一 1:3-9
わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。 あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。


福音朗読  ヨハネによる福音書 20:19-31
その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

過去の主日説教

ミサのページへ戻る