桃山教会

復活の主日説教 説教復活の主日

菅原神父様のブログ「くまたくんの忘れない場所」の音声配信を文字起こしをしてくださったものです。

  • 2023年4月9日
  • 福音箇所
  • ヨハネ福音書20章1~9節
  • 走って行って彼らに告げた。(ヨハネ20:2)

 皆様、主のご復活、おめでとうございます。十字架につけられて、死んで、葬られた、イエス・キリストが、復活して、今、生きておられる、この私と共にいてくださる、その事実の内に生きているのが、私達です。キリストは生きて、おられます。今私と共にいてくださいます。私達は、このことを、いつもいつも、忘れてしまう。でも、忘れても忘れても、何度でも、この事実を思い出して、この事実に、立ち戻ることができる。それが、私たちです。  今日の「第二朗読」で、パウロは、こう言っています。「上にあるものに心を止め、地上のものに、心惹かれないようにしなさい」。上にあるもの、つまり神様の所と、そして、この地上。この二つの場所を、私たちは、いつでも、行き来、できるわけです。言い方を変えると、それは、「四旬節」に登場していた、あのサマリアの女性。あの女性のように、私達にも、井戸がある、ということです。その深い井戸の底には、キリスト、という、水脈があります。この、井戸の水を、いつでも、くみ上げて、飲むことができるのが、私達です。そして、そのキリストは、死んで、復活したキリストです。復活するためには、必ず、死ななくてはなりません。私達も、同じです。「死ぬ」とは「復活する」ということです。だから、もう、まるで死んでいるかのような、もう死んでしまいたいと思うような、日々を、送っていたとしても、そこに「復活」があるということ。まさにあのサマリアの女性が、そうでした。生きる希望も意欲も、失くしていた。人生の意味も、見出せなくなっていた。まさに、そのような中において、彼女は、キリストと出会い、そして、その水を、飲んで、「復活」します。「死」があるから、「復活」があります。「死」がなかったら、「復活」はありません。  「四旬節」には祈りの日々を、過ごされてきたと思いますが、「祈り」もまた、「死ぬ」ということ。「祈りの時間」を作る、という事は、日常の中に、「死ぬ時間」を作る、ということです。その死において、私たちは、「復活」します。また、「死ぬ」ということは、「愛する」ということです。人は、死んだ時に初めて、本当に愛するものを見出します。「Never give up」と言って、頑張っている時ではなくて、「give up」した時にこそ、本当に大切なものと、出逢います。  今日、「第一朗読」で、ペトロが言っています。「人々はイエスを木にかけて、殺してしまいましたが、神は、このイエスを、3日目に復活させました」。その3日目、のことですが、今日の福音を読むと、ペトロ、走ってるんです。お墓に向かって、ヨハネと一緒に、ダッシュ、してます。「イエス様が死んでしまって、もう絶望だ。何もやる気になれない。」だったはずなのに、いきなり猛ダッシュしている。私たちの「復活」も、こうやって、いきなり、「復活」、です。自分の力じゃなくて、神の力によって、起き上がって、走り出す。まるで、イエス様に病気を癒やされた人達みたいに、です。だから、私達はどんなに落ち込んでいようと、絶望する必要はありません。というより、その「絶望」こそが、「復活」です。いつも、今生きているキリスト、今共にいてくださるキリストに、今すぐに、猛ダッシュで、立ち戻りましょう。主のご復活、おめでとうございます。

第一朗読  使徒言行録 10:34、37-43
その日、ペトロは口を開きこう言った。「あなたがたはこのことをご存じでしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です。人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが、神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対してです。そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」


第二朗読  使徒パウロのコロサイの教会への手紙 3:1-4
皆さん、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。


福音朗読  ヨハネによる福音書 20:1-9
週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。

過去の主日説教

ミサのページへ戻る