桃山教会

四旬節第5主日説教 説教ラザロの復活

菅原神父様のブログ「くまたくんの忘れない場所」の音声配信を文字起こしをしてくださったものです。

  • 2023年3月26日
  • 福音箇所
  • ヨハネ福音書11章3~45節
  • この病気は死で終わるものではない。(ヨハネ11:4)

 神学生時代の悲しい思い出ですが、中世哲学を教えてくださっていた長倉久子先生が、ご病気になって、そのまま2008年にお亡くなりになりました。生前に、ご本人から、あるいは亡くなった後に、ご遺族の方からいただいた、先生の著作が、何冊か私の手元にあったんですが、ずっと読むこともなく、そのままになっていました。でも、最近、中世の神学者に興味を抱くようになって、初めて先生の本を紐解いているんですが、ご本人が亡くなっても文章が残されているということは、その人が、今ここにいて語りかけてくれている、そういうことなんだな、と言う思いを感じさせられています。  例えば、先生は、ボナヴェントゥラの『魂の神への道程』という本を、翻訳注解されていますが、その解説にこう書かれていました。「人間は果てしない憧れを持って高い山を目指して険しい道を登坂する。『なぜ』と尋ねられて、ある登山家は『そこに山があるから』と答えた。この答えは、人間の高みへの思考が、説明を超える人間の現実であることを示している。」これは、「人間が神へと開かれていて、神を求めざるを得ない。だから、そういうものとしての人間に、ボナヴェントゥラが、神への旅路の道案内になればと、切なる願いを込めて、この『魂の神への道程』という本を書き上げた」、そのことを長倉先生が語っている部分です。生前の先生の講義は、小さな声でひそひそと語るような感じでしたが、でも、時に、心が空高く舞い上げられていくような、詩的な言葉が、ぽつんと口をついて出てくる、そんな、情感あふれる授業でした。先生の本を読んでいると、もう15年も昔の、そんな、神学生時代の自分の感覚が、生き生きと蘇ってきて、ほんとに著書というのは、その人そのものなんだな、と、それを痛感させられた思いです。蘇ってくるんですね。  今日は、ラザロの蘇りの物語が朗読されましたが、この箇所は、ドストエフスキーの『罪と罰』の中で、重大な役割を果たしています。こういう『罪と罰』のような古典的名作を読むと、全く新しい何かに初めて気づかさせられる。と言うよりもむしろ、もともと自分の中にあった何かと再び出会えた、そんな感じになると思います。蘇るっていうのはそういうことなんじゃないでしょうか。「ラザロの復活」に重なって、もうすでに私の中にある大切なもの、でも、いつの間にか心の中のお墓に葬り去られていた、そんな私のラザロを、イエス様は墓石を取り除けて、引っ張り出してくださいます。こうやって、お墓から出てきた魂は、神様へと歩み始める。まさに「魂の神への道程」が、始まるわけです。  私たちのありふれた日常の中にも、私の中で死んでしまっていた何かを蘇らせてくれる、そんなものや出来事との出会いが、実はたくさん、ちりばめられています。忘れていた大切な何かが蘇る、その復活の時は近づいています。  希望のうちに、「四旬節」の残りの日々を歩んでいきましょう。

第一朗読  エゼキエル書 37:12-14
主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。また、わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。わたしはお前たちを自分の土地に住まわせる。そのとき、お前たちは主であるわたしがこれを語り、行ったことを知るようになる


第二朗読  ローマの信徒への手紙 8:8-11
(皆さん、)肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。


福音朗読  ヨハネによる福音書 11:3-7、17、20-27、33-45
(そのとき、ラザロの)姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」(イエスは)心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。

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