桃山教会

四旬節第4主日説教 説教生まれつきの盲人をいやす

菅原神父様のブログ「くまたくんの忘れない場所」の音声配信を文字起こしをしてくださったものです。

  • 2023年3月19日
  • 福音箇所
  • ヨハネ福音書4章5~42節
  • いや違う。似ているだけだ。(ヨハネ9:9)

 今日は「ヨハネ福音書」第9章の、イエス様が生まれつき目の見えない人をいやすという場面でした。目が見えずに物乞いをしていた人が、目が見えるようになっていたので、人々は驚きました。中には、「これは本人ではない。別人だ。似ているだけだ」そんな風に言う人もいました。それに対して、当の本人は、「私がそうなのです」そう答えたと書かれています。この「私がそうなのです」、これは原文のギリシャ語だと、「εγώ είμαι(エゴ・エイミー)」。つまり英語の「I am」で、直訳すると「私はある」ということです。もうお分かりのように、これは、神様の名前と同じです。「私はある」それは、かつてモーセが神様に名前を尋ねた時に、神様が直々に教えてくれた、ご自分のお名前です。だから、ここでは、この目の見えなかった人が、「別人なんかじゃありません。私がそうなのです」と、単にそう言っているだけにとどまらず、それ以上の意味が、自ずと、ここに満ちあふれています。何しろ、神様の名前「私はある」が、この人の口から出てきているわけですから、何か神様がこの人を通して、どばーっとほとばしり出てきた、そんな迫力をここに感じてしまいます。  実は、同じようなことが、この「ヨハネ福音書」の別の場面でも起こっています。それは第18章のイエス様が逮捕される場面です。自分を捕まえに来た兵士たちに向かって、イエス様は「誰を探しているのか」とお尋ねになります。すると兵士たちが「ナザレのイエスだ」と答えます。それに対するイエス様の言葉が「私である」というものでした。「誰を探しているんだ」「ナザレのイエスだ」「私である」。って、日本語訳だと自然に会話がつながっているので、読み過ごしてしまうんですが、これも原文だと、「εγώ είμαι(エゴ・エイミー)」。「私はある」なので、「誰を探してるんだ」「ナザレのイエスだ」「私はある」で、ここでも、神様が、この言葉を通して、どばーっとほとばしり出てきた感じ。で、その証拠に、この場面では、イエス様が、「私である」と答えた時、兵士たちも、祭司長たちもファイサイ派も、そして、イスカリオテのユダも、「みんな後ずさりして地に倒れた」そう書かれています。まるで、ほとばしり出てきた神様の聖なる迫力に、みんな圧倒されてしまったかのように、です。  今日の、目の見えない人のいやしの物語は、人がイエス様との出会いによって自分の本当の名前を知る、そうゆう物語なんだと思います。私たちの本当の名前は、「私はある」。つまり神様と同じなんです。それほどまでに、この私は神様との深いつながり、そのものです。いつか、誰でも、必ず、そのことに目覚める。この人のように、目が、開くんですね。目が開かれたこの人は、もはや、ファイサイ派の人たちの意地悪な、嫌味な言葉にも、動じることはありませんでした。自分が「私はある」だと気がついた時、私たちは、この世のことで一喜一憂することから、解放されていきます。  せっかくの「四旬節」です。今日のこの人が、イエス様とたっぷりと関わって対話を重ねていたように、神様との深い深いつながりに、たっぷりと沈んでゆく。そんな恵みの時間を重ねてまいりましょう。

第一朗読  サムエル記 上 16:1、6-7、10-13
(その日、主はサムエルに言われた。)「角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした。」彼らがやって来ると、サムエルはエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思った。しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」エッサイは七人の息子にサムエルの前を通らせたが、サムエルは彼に言った。「主はこれらの者をお選びにならない。」サムエルはエッサイに尋ねた。「あなたの息子はこれだけですか。」「末の子が残っていますが、今、羊の番をしています」とエッサイが答えると、サムエルは言った。「人をやって、彼を連れて来させてください。その子がここに来ないうちは、食卓には着きません。」エッサイは人をやって、その子を連れて来させた。彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。主は言われた。「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。


第二朗読  エフェソの信徒への手紙 5:8-14
(皆さん、)あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。――光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。――何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。 「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」


福音朗読  ヨハネによる福音書 9:1-41
(そのとき、)イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」彼は、「主よ、信じます」と言ってひざまずいた。

過去の主日説教

ミサのページへ戻る