桃山教会

四旬節第1主日説教 説教荒れ野での試み

菅原神父様のブログ「くまたくんの忘れない場所」の音声配信を文字起こしをしてくださったものです。

  • 2023年2月26日
  • 福音箇所
  • マタイ福音書4章1~11節
  • 飛び降りたらどうだ。(マタイ4:6)

 今年も「四旬節」という期間が始まりました。人には、特別な期間が必要だと言われます。例えば、「反抗期」という期間があるから、子供は、「世の中は自分の思い通りにはならないのだ」、そのことを知って、それで、幼い自己中心性を捨て去ることが、できるそうです。だから、「反抗期」というのは、大切な、過越の時間です。今私たちが迎えた、この「四旬節」も、そんな、大切な過越の時間です。この世界が、自分が既に知っているようなものを、はるかに超えている、神秘的で尊いものであること、そこに目が開かれてゆくために、必要な、大切な期間。それが「四旬節」です。  今、私は中世の神秘神学に少し興味があって、ボナヴェントゥラや十字架のヨハネの本を読んでいますが、全然理解できません。けれども、理解できないけれども、それでも伝わってくるのは、この世界が、あるいは、自分の命が、私が考えているようなものではない、もっともっと、はるかに素晴らしい世界であり、命であること、それをボナヴェントゥラや十字架のヨハネは、どうしても人々に伝えたくって、これを書いたんだ、ということです。そこには、学問的な功名心などは全くなくって、ただただ、人の救いのためだけに、切実で、誠実で、純粋な善意だけで、これを書いたんだ。そのことが、難しくて私には理解できない文章を通してでも、ちゃんと伝わってきます。彼らが確実に見ている神の国に、私も行かなくては、絶対に行きたい、そんな気持ちには、充分、させてもらえます。  まさに、「四旬節」という期間は、私たちが、その、神の国に目を向けて、その命にひたすら憧れてゆく、そのために与えられている期間に、他なりません。いつもとは違う眼差しで、この世界を、出会う人々を、そして、自分自身の心を、見つめていきましょう。  幸いに、そんな私たちの40日を、一緒に歩んでくださるのは、他ならぬイエス様です。今日の福音にあるように、イエス様は、荒れ野で、私たちと一緒に40日間を過ごしてくださいます。この40日間は、私たちが、命の故郷へと里帰りをしてゆく、心の巡礼です。宗教は、頭だけでやるものではありませんので、何か犠牲の業を決めて実践していくということが、極めて大切だと思います。台風が近づくとアナウンサーは、「川には近づかないでください。懐中電灯を用意してください。飛ばされやすいものはしまってください。」そういうことを、何度も繰り返します。同じように、教会も、「四旬節」には、「何か決めて、犠牲の業を実践しましょう。」と繰り返します。頭だけで考えたら、「なんで 40日間、お酒とか甘いものとかを控えることが救いと関係あるんだ」ってなりますが、でも、とにかく、実際に、何か、やってみてください。これは、頭では理解できなくても、それでも、ボナヴェントゥラや十字架のヨハネの本を読むと心が開かれてゆく、というのと、似ているのかもしれません。  大切な、40日の過越の時間を、過ごしてまいりましょう。

第一朗読  創世記 2:7-9、3:1-7
主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。


第二朗読  ローマの信徒への手紙 5:12-19
(皆さん、)一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。《律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。》一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。


福音朗読  マタイによる福音書(4:1-11)
(そのとき、)イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、 飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。

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