桃山教会

年間第5主日 説教地の塩、世の光

菅原神父様のブログ「くまたくんの忘れない場所」の音声配信を文字起こしをしてくださったものです。

  • 2023年2月5日
  • 福音箇所
  • マタイ福音書5章13~16節
  • あなたがたは地の塩である。(マタイ5:13)

 イエス様は、「あなたがたは地の塩である。」、そうおっしゃいます。この言い方は、事実が事実としてそのまま語られているという単なる肯定文です。「頑張って地の塩になりなさい。」「努力して地の塩になるべきです。」そんな命令や努力目標が語られているわけではありません。塩自身にとって、自分が塩であること、これは努力によるものではなく、生まれながらに塩なのであって、起きていようが、寝ていようが、逆立ちしようが、もう塩は塩である。それ以上でも、以下でもありません。私たち一人ひとりの、この次元、「神様がこの私をこのようにお作りになった」という、そこのところの話です。「私が私を生きる」もうそれだけで、それが「地の塩である」ということです。  なお、今日の福音に「人々があなた方の立派な行いを見てあなた方の天の父をあがめるようになるためである」とありますが、この「立派な」と訳されているのは、原文のギリシャ語だとΚαλός(カロス)という言葉で、それは、ものすごい単純素朴な意味での「良い」という言葉ですから、そこには「立派な」と訳されてしまうと出てきてしまう、何か「完全無欠な」「完璧な」というようなニュアンスは、もともとありません。「良い」というのは、たとえ、欠点がいくらあったって「良い」ということだって、あるわけです。  これは、先頃襲われて重症を負われた社会学者の宮台真司さんが言っていた事ですが、「人間社会というのは凸と凹があるから良いものになってゆく」。もとより、人はそれぞれ長所も欠点も、強さも弱さも抱えていて、お互いの弱さや欠点が補い合われる相互作用、これがあるからこそ、初めて良い共同体が生まれるし、その一人ひとりにも、深い命の充実感が生まれてゆく。つまり、一人ひとりがオールマイティじゃだめだということ。そういうことがあるわけで、まさに、これはパウロが言ってるように「人は弱いからこそ強い」ということです。そういうことを含めた「良い」ということが、ここでは言われているはずで、それを見て、人々が神様をあがめるようになってゆく。一人の立派な人間が、「すごい」「立派だ」ってあがめられるんじゃなくて、弱さを補い合い支え合っている共同体を見て、その場全体に、働いているもっと大きないのちとしての神様が、人々に見えてきて、それで神があがめられるようになってゆくということでしょう。  だから、私たちは、自分の弱さや欠点を隠す必要はないし、むしろ、隠しては、ダメなのだと思います。自分の弱さや欠点を、「ダメだ。恥ずかしい」って思ったりするのは、まるで塩が、「自分は甘くないからダメなんだ。お砂糖さんみたいにならなきゃ自分には価値がないんだ」なんて、とんでもない勘違いをしているようなものです。いみじくも、パウロは、「キリストの力がわたしのうちに宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」。そう、「二コリント書」12章で言っています。私たちは弱さや欠点をたくさん抱えているからこそ、「地の塩」であり「世の光」です。  私たちは欠点だらけで、他の人に頼らなくてはならない、という、そんな私たちの弱さを通してこそ、神の栄光があらわになってゆきます。

第一朗読  イザヤ書(58:7-10)
(主は言われる。わたしの選ぶ断食とは、)飢えた人にあなたのパンを裂き与え さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと。そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で、あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し、主の栄光があなたのしんがりを守る。あなたが呼べば主は答え、あなたが叫べば「わたしはここにいる」と言われる。軛を負わすこと、指をさすこと 呪いの言葉をはくことを あなたの中から取り去るなら、飢えている人に心を配り 苦しめられている人の願いを満たすなら あなたの光は、闇の中に輝き出で あなたを包む闇は、真昼のようになる。


第二朗読  コリントの信徒への手紙一(2:1-5)
兄弟たち、わたし(は)そちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。


福音朗読  マタイによる福音書(5:13-16)
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「 あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

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