桃山教会

年間第4主日 説教幸いな人

菅原神父様のブログ「くまたくんの忘れない場所」の音声配信を文字起こしをしてくださったものです。

  • 2023年1月29日
  • 福音箇所
  • マタイ福音書5章1~12節
  • 悲しむ人々は、幸いである。(マタイ5:4)

 先週の福音で、4人の漁師を弟子にしたイエス様は、いよいよ、本格的に宣教活動を始めていきます。今日は、「山上の垂訓」の場面で、その始まりの「真福八端(しんぷくはったん)」の箇所が読まれます。「真福八端」という呼び方をしているのは、日本や中国の教会だけで、他の国では、この「マタイ5章」の1節から12節、この部分は、端的に「至福」あるいは、「至福の教え」、そう呼んでいます。例えば英語だと「The Beatitudes」となります。いずれにせよ、私たちは、「本当の幸せとは何ですか」という問いに対して、「聖書」のこの「至福の教え」の箇所を指して、「本当の幸せとは、イエス様が教えてくれた、これなんです。」そう、断言することができるわけです。まず、それを、しっかりと、心に刻んでおきましょう。  そして、この「至福の教え」に関連して、特に最後の、「ののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる時、あなたがたは幸いである。」という、この「幸い」に関連して、ご紹介しておきたいアシジのフランシスコのエピソードがあります。フランシスコが道を歩きながら、レオーネという修道者に語ります。「たとえ私たちが聖人になっても、そこには完全な喜びはありません。私たちが奇跡を行っても、完全な喜びはありません。あらゆる学問を修めても、完全な喜びはありません。聖書を知り尽くしても、天使の言葉を話せても、世界中の全ての人をキリスト教に改宗させたとしても、そこには完全な喜びはありません。」そんなふうにフランシスコが語り続けるので、しまいに、レオーネはこう言います。「お願いですから、どうぞ完全な喜びは一体どこにあるのかを教えてください。」それに対してフランシスコはこう答えます。「今私たちはこうやって歩いているけれども、やがて雨が降ってきて、びしょ濡れになって、泥だらけになって、寒さに凍えて、お腹もペコペコになる。そしてある修道院にたどり着いて、宿と食事をお願いしようとしたら、そこの修道院の門番が出てきて、『あっちへ行け。インチキ修道士のごろつき野郎。誰がお前らなんかに宿を貸すか。』そんな風に罵られる。それでも『どうかお願いです。せめての軒の下にでも入れてください。私たちは本当に修道士なんです。』と頼むと、『もう、だったらどうした。ふざけるな。この恥知らず。さっさと消え失せろ。』と言われて、棒で散々殴りつけられる。そんなことがあったら、そこにこそ、完全な喜びがあるんだ。」フランシスコはそう言ったといいます。今日はこのエピソードだけご紹介しておきます。  自分が信仰生活を送っていて、キリスト者として生きていて、それで何を求めているのか。与えられると思っている、キリスト者としての幸せを、どんなものだと思っているのか。自分はとんでもない勘違いをしていないのか。今日の「真福八端」、「至福の教え」こそが、本当の幸せなんですよ、ということを、思い起こしながら、そして、キリストが、十字架上で、苦しんで侮辱されながら死んでいかれたことを思い起こしながら、黙想してみたいところです。

第一朗読  ゼファニヤ(2:3, 3:12-13)
主を求めよ。主の裁きを行い、苦しみに耐えてきた この地のすべての人々よ 恵みの業を求めよ、苦しみに耐えることを求めよ。主の怒りの日に あるいは、身を守られるであろう。 わたしはお前の中に 苦しめられ、卑しめられた民を残す。彼らは主の名を避け所とする。 イスラエルの残りの者は 不正を行わず、偽りを語らない。その口に、欺く舌は見いだされない。 彼らは養われて憩い 彼らを脅かす者はない。


第二朗読  一コリントの信徒への手紙(1:26-31)
兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。


福音朗読  マタイによる福音書(5:1-12)
(そのとき、) イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」

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