桃山教会

年間第3主日 説教ガリラヤで伝道を始める

菅原神父様のブログ「くまたくんの忘れない場所」の音声配信を文字起こしをしてくださったものです。

  • 2023年1月22日
  • 福音箇所
  • マタイ福音書4章12~23節
  • わたしについて来なさい。(マタイ4:19)

 今日の福音はこう始まります。「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。」ガリラヤというのは、都エルサレムから遠く離れた辺境の地です。でも、そのガリラヤで、イエス様の宣教が始まります。  救いは「中心地」ではなく、「隅っこ」から始まります。人は、「幸せでいたい」そういう、言ってみれば「中心」を求めます。ところが、「幸せ」を超えた「救い」というのは、いつも「隅っこ」からしか、始まりません。「私は幸せだ」って、こう、中心にいると思っている時、知らずに傲慢になっていないでしょうか。例えば、もし私たちの宣教が、「私は幸せ、あなたは不幸。だから私が幸せを教えてやる。」そんなんだったら、どうでしょう。さらには、「幸せになりたいんだったら献金してください。」なんて、もってのほかです。  そもそも、宗教って、幸せになるためにやるもんじゃ、ありません。宗教なんかやったって、洗礼を受けたって、幸せなんかには、なれません。それは、保証します。安心してください。そこじゃなくって、「これが幸せだ」って自分が勝手に決めつけているものが、キリストとともに十字架につけられて死ぬ。そこに招かれていくのが、宗教です。かつて、遠藤周作の『沈黙』を映画化したマーティン・スコセッシ監督がこんなことを言っていました。「宣教師ロドリゴが踏み絵を踏んだ時、それは信仰を捨てたのではなくて、自分が信じていたイエスを捨てたのだ。そして、その時に初めて、本当のイエスと出会ったんじゃないか。」「自分が信じているイエス」と「本当のイエス」とは違う、という洞察です。自分が、「これが神様だ」「これが幸せだ」と思い込んでいるものは、「本当の神様」でも、「本当の幸せ」でも、ありません。神は、人間の物差しを限りなく超えている方だから、だからむしろ、人間から見ると、神は「中心」じゃなくって、「隅っこ」になるわけです。イエス様はいつも、ガリラヤから、隅っこから、宣教を始めていくんです。こうして「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が差し込む」ことになります。パウロの言葉で言い換えれば、「私は弱い時にこそ強い」そうなるし、だから、「幸せじゃないことこそが救いだ」という逆説が、見えてくるはずです。私たちは、心の隅っこ、心の闇、そんな、心の中のガリラヤでこそ、イエス様との出会いを果たします。ずばり、来週の福音では、「悲しむ人々は幸いである」そう語られます。幸せの時ではなく、苦しみの時にこそ、私たちは幸いだ、十字架につけられている時こそが救いだ、という神秘です。それは、今日召し出されているペトロたちにしても、彼らは結局イエス様のことを理解できずに、最後はイエス様を見捨てて逃げ去ってしまう。それは、救いも幸せも全然分かっていない、私たちの姿です。でも、そんなそっくりそのままの、この私たちの救いの物語こそが、福音です。  今年も、ペトロたちのように、「幸せではない私」のままで、イエス様と一緒に、それぞれの日常を、このガリラヤを、巡り歩いてゆきましょう。

第一朗読  イザヤ書(8:23-9:3)
先にゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが 後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた 異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。あなたは深い喜びと大きな楽しみをお与えになり、人々は御前に喜び祝った。刈り入れの時を祝うように 戦利品を分け合って楽しむように。彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭をあなたはミディアンの日のように折ってくださった。


第二朗読  コリントの信徒への手紙一(1:10-:13,17)
兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです。キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。


福音朗読  マタイによる福音書(4:12-23)
イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。
《イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。》

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