桃山教会

待降節第4主日説教ヨセフの夢

菅原神父様のブログ「くまたくんの忘れない場所」の音声配信を文字起こしをしてくださったものです。

  • 2022年12月18日
  • 福音箇所
  • マタイ福音書1章18~24節
  • 主の天使が夢に現れて言った。(マタイ1:20)

 「人生に夢があるのではない。夢が人生を作るんだ。」という有名な言葉があります。で、まさに今日のヨセフ様、夢によって人生が作られていくことになりました。夢の中に天使が現れて、マリア様のお腹の子は聖霊によって宿ったんだと告げた。これによってヨセフ様は、一度は婚約破棄と決めていたマリア様との結婚を、予定通り進めることにしました。現実的、論理的、合理的な考え方よりも、夢の方を優先した、という、このことで、私は、よく言われている「ヨセフ様とマリア様は年の差婚だった。つまり、ヨセフ様はマリア様よりもかなり年をとっていた。」その説を支持したいと思います。しかも、きっとヨセフ様は、もう50歳ぐらいだったんじゃないかな、そんな気さえしてしまいます。  なぜかと言うと、私自身、50歳を超えて思うんですが、本当に、なんというか、棺桶に片足を突っ込んでいる感じ、それが、もう出てきているんです。結構それはいい意味で、この地上で現実社会を生きていながらも、なにか、この地上の物事を通り越して、それを透かして見えてくる方の、この世を超えた永遠の世界、そっちの方がすごくリアリティーを持って意識されてきている、そんな感じです。悪く言えば、なにかいつも半分眠りながら夢を見ながらこの世を渡っている、そんな感じ、だとも言えます。今日のヨセフ様と同じように、合理的な判断に従うんじゃなくって、夢に従うようになっちゃっています。例えば、先日、ふと「旅行割を使って奈良のホテルに泊まらなければ」と思ったら、早速奈良に行って、朝ホテルで目が覚めると、窓から生駒山が見えていて、もう「今日は絶対この山に登らなくっちゃ」って、で、もう気がついたら近鉄生駒駅からのケーブルカーに乗っていました。するとその日は平日だったので、お母さん、お父さん、おばあちゃん、おじいちゃんに連れられて、生駒山上遊園に行く未就学の子ども達がケーブルカーにいっぱい乗っていたので、もう天使のような子ども達と一緒にケーブルカーで天空へと上げられてゆく、そして、山頂からは雲海に浮かぶ大阪の大都市が見渡すことができて、もう全てが夢のようでした。もうこういう体験、脈絡もないし、いわゆる生産性も低い、けれども、ここからやってくるメッセージこそ、大切にしなくっちゃ、ということで、そこが、私が今日のヨセフ様に100%共感できるところです。独断と偏見で申し訳ありませんが、多分まだヨセフ様がすごい若い人だったら、婚約破棄という合理的判断を貫いていたんじゃないかなって思います。私も若い頃なら「気がついたら生駒山頂にいた」なんて、そんなこと、なかったと思います。  棺桶に片足を突っ込んで生きるって、それは結局、今日のインマヌエル、「神は我々と共におられる」このことに、よくも悪くも信頼しきってるっていう事なんじゃないでしょうか。所詮この世は全て夢なんだし、神様が一緒にいてくれるんだから、まあいいか、という深い信頼です。  聖霊によって宿っちゃうなんて変な夢だ、けれどまあこれもありかなって、神様に従うヨセフ様、素敵だなって思いました。

第一朗読  イザヤの預言(7:10-14)
(その日、)主は更にアハズに向かって言われた。「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」しかし、アハズは言った。「わたしは求めない。主を試すようなことはしない。」イザヤは言った。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間に、もどかしい思いをさせるだけでは足りず、わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。それゆえ、わたしの主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」


第二朗読  ローマの教会への手紙(1:1-7)
キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから、(兄弟の皆さんへ。)――この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがたもいるのです。――神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。


福音朗読  マタイによる福音(1:18-24)
イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ(た。)

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