桃山教会

待降節第3主日説教洗礼者ヨハネとイエス

菅原神父様のブログ「くまたくんの忘れない場所」の音声配信を文字起こしをしてくださったものです。

  • 2022年12月11日
  • 福音箇所
  • マタイ福音書11章2~11節
  • 私につまずかない人は幸いである。(マタイ11:6)

 教会の結婚講座で、お二人にやっていただくワークシートの中に、「無関心、上の空、いい加減、適当に合わせているだけ、二人の対話がそんなことになっていませんか」という質問があって、これを読んで、いつも、苦笑いせざるをえません。「無関心、上の空、いい加減、適当に合わせているだけって、まさに、司祭が朝から晩までやっていることじゃないか」そう思ってしまうからです。  もう随分昔のことですが、ムーディ勝山という芸人が、「右から来たものを左に受け流すの歌」というのを歌っていましたが、まさに、私も、毎日、忙しい忙しいなどと称しながら、やっている事は、朝から晩まで「右から来たものを左に受け流しているだけ」に他なりません。ただ、言い訳がてら考えるのは、「心を込めて一人の人に徹底的に関わって、他の仕事全部キャンセルする」そっちの方が、もっと致命的にいけないんだなと思っています。だから、これまでも、これからも、「無関心、上の空、いい加減、適当に合わせているだけ、右から来たものを左に受け流す」しかないんですが、でも、それでも、必ず何か、本当に大切なことが、ちゃんと相手に及んでゆく、これこそが宗教であり、聖職者であり、司祭なのだ。実は、そっちの方こそ、いつも本当に強く感じていて、だからこそ、こんなことを続けていられます。  今日、出てくる洗礼者ヨハネにしても、決して、心を込めて、徹底的に優しく一人の人に関わってあげるだなんて、そんなことは、していない。そんなことじゃなくて、むしろ肝心なのは、「もう時が満ちたんだ。今こそ神の国がやってきたんだ」というそっちの方です。それはもう、人間の小手先の、親切だとか、優しさだとか、真心だとか、そんなもんじゃなくって、客観的事実としてやってきているすごくオートマチックな何かです。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」今日の福音に書かれている、こういうことは、人が真心を込めて一人の人に関わってあげたというような人間的な功績によるものではありません。「時が満ちたから」「人間を超えるところから救いが溢れてきているから」という次元で、宗教というのは、そういう次元に、人をアプローチさせる一種の装置でもあります。だから、聖職者が優しくて親切だから、とか、真心を込めて関わってくれる人だからとか、そんなことで、人が救われるわけではありません。人を救えるのは、人ではありません。神様だけです。人間に頼っても、必ず裏切られます。私だけじゃなくって、結局、人は誰だって自分中心です。みんな、「無関心、上の空、いい加減、適当に合わせているだけ」そういうものです。そうじゃなくって、本当に、この私に命をかけて関わってくださるのは、救ってくださるのは、神様だけです。そんな神様を知っている私たちは幸せです。  そんな神様と皆様をつなげるためにこそ、私は、右から来たものを左に受け流し続けますので、どうぞ今後とも、よろしくお願いします。

第一朗読  イザヤの預言(35:1-6、10)
荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ 砂漠よ、喜び、花を咲かせよ、野ばらの花を一面に咲かせよ。花を咲かせ 大いに喜んで、声をあげよ。砂漠はレバノンの栄光を与えられ、カルメルとシャロンの輝きに飾られる。人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。弱った手に力を込め よろめく膝を強くせよ。心おののく人々に言え。「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。主に贖われた人々は帰ってくる。とこしえの喜びを先頭に立てて、喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え、嘆きと悲しみは逃げ去る。


第二朗読  ヤコブの手紙(5:7-10)
兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです。兄弟たち、裁きを受けないようにするためには、互いに不平を言わぬことです。裁く方が戸口に立っておられます。兄弟たち、主の名によって語った預言者たちを、辛抱と忍耐の模範としなさい。


福音朗読  マタイによる福音(11:2-11)
(そのとき、)ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。 『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』 と書いてあるのは、この人のことだ。はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」

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