桃山教会

待降節第2主日説教洗礼者ヨハネの宣教

菅原神父様のブログ「くまたくんの忘れない場所」の音声配信を文字起こしをしてくださったものです。

  • 2022年12月4日
  • 福音箇所
  • マタイ福音書3章1~12節
  • 悔い改めにふさわしい実を結べ。(マタイ3:8)

 毎年、待降節第2主日には、洗礼者ヨハネが登場します。私たちは、この「荒れ野で叫ぶ声」によって、生き方の変革を迫られているんですが、でもそう簡単に生き方を変える事はできないものです。また、何が何でも無理に変えようとするというのも一種のエゴイズムです。やはり、生き方が変わるというのは、時が満ちた時に自ずから変わってゆく、そういうものではないでしょうか。今日、ヨハネが言っている「天の国は近づいた」という、そういう「時」が、誰にでも訪れるのだと思います。時が満ちるから、青虫は脱皮をして一回り大きくなります。自分の努力とは関係ありません。時期が来れば必ず脱皮するわけで、私たちの人生にもきっとそういう時があるに違いありません。それは、子供から大人への成長段階だけの話ではなくて、大人になっても、いくら歳をとっても、やはりそういう脱皮の時、生き方が変わる時、必ず、やってきます。そういう、時が満ちれば、本人の努力とか決意とか、そんな事は二の次で、もう否応なく、変わってしまいます。  それから、今日ヨハネは、「悔い改めにふさわしい実を結べ」と言っていますが、このふさわしい実とは、何でしょうか。私たちはどうしても道徳的に物事を考えてしまいがちですので、「ふさわしい実を結ぶ」というのは、何か善い行い、善行を積む、そういうことのように思うかもしれません。ところが、もう時が差し迫っている、もう木の根元に斧が置かれている、そういう文脈なのですから、今更せっせと善行を積んでいる時間はない、わけです。だから、この「ふさわしい実」というのは、どうやら「洗礼」という宗教的な儀式、そっちを言っている可能性が高そうです。実際、今日の話題は、「水の洗礼」「火の洗礼」「聖霊の洗礼」、いろいろ言われているにしろ、とにかく「洗礼」の話一色になっています。  現在人は、「儀式なんて、ただの形だけで、本当に大切なのは実際的な善い行いだ。」何かそんな囚われに陥りがちですが、でも「儀式が無意味」なんだったら、私たちにしても一体何のために毎週ミサに行くんでしょうか。今日の福音にも、エルサレムとユダヤ全土からヨルダン川沿いの地方一帯から、人々が、わざわざヨハネのところまで行って洗礼を受けた、そのことが書かれています。それほどまでに、洗礼、宗教的儀式、そこに決定的な意味を見出していたというわけです。やはり、私たちは、ここで自分が受けている洗礼の意味を、思い起こし、そこに希望を置くべきではないでしょうか。自分の力はあてになりません。洗礼の秘蹟に込められた神の恵み、神の神秘、それがもたらす無限の力をこそ、私たちは、あてにすることができます。本当の愛の行いは自分の力ではなくて、神様の力によってだけ、行うことができるからです。  先週はノアの箱舟の時の洪水の「水」、そして今週は、ヨルダン川の「水」。「水」が隠れた主人公で、そして、もちろんそれは、私たちが受けた洗礼での水に結ばれています。待降節の今、自分が受けている洗礼の恵みを見つめてみましょう。

第一朗読  イザヤの預言(11:1-10)
(その日、)エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。 目に見えるところによって裁きを行わず、耳にするところによって弁護することはない。弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち、唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。正義をその腰の帯とし、真実をその身に帯びる。狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる。その日が来ればエッサイの根は、すべての民の旗印として立てられ、国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。


第二朗読  ローマの教会への手紙(15:4-9)
(皆さん、)かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。わたしは言う。キリストは神の真実を現すために、割礼ある者たちに仕える者となられたのです。それは、先祖たちに対する約束を確証されるためであり、異邦人が神をその憐れみのゆえにたたえるようになるためです。「そのため、わたしは異邦人の中であなたをたたえ、あなたの名をほめ歌おう」と書いてあるとおりです。


福音朗読  マタイによる福音(3:1-12)
そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」

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