桃山教会

待降節第1主日説教キリストの再臨

菅原神父様のブログ「くまたくんの忘れない場所」の音声配信を文字起こしをしてくださったものです。

  • 2022年11月27日
  • 福音箇所
  • マタイ福音書24章37~44節
  • 一人は連れて行かれ、もう一人は残される。(マタイ24:40)

今日から新しい典礼暦年です。「マタイ福音」が中心的に読まれる「A年」が始まりました。  ところで、私は、先日、長野県にある修道院で、黙想期間を過ごさせていただきました。その滞在期間、今回は4日間でしたが、テレビやパソコンやスマホ、そういうモニターというか、ディスプレイというのか、とにかく、「画面の中の世界」というものを、一切見ないで過ごしました。だから、目にするものは全て「実物の世界」、本当に、ここに本物として存在するもの、それだけを見て過ごしたんですが、それを4日間やっていただけで、心や体が、ちょっといい感じに変化したのを感じました。それは、逆に言えば、日頃、パソコン、スマホ、テレビといったような液晶画面の中の世界、それを見る時間が、どれだけ長いか、そしてそれが、どれだけ知らずにストレスになっているのか、思い知った気がします。お酒を飲むにしても、週に何日かは「休肝日」というものが必要ですから、きっと「画面を見ない日」「ネットを休む日」みたいなものも、必要なのかもしれません。さらに、その4日間、「実物の世界だけしか目にしなかった」と言いましたが、ただ、「聖書」とか「祈りの本」とか「霊的な本」とか、そういう「文字」は、読んだわけで、もし、それもやめたら、つまり、何日間か、「文字」というものを一切読まないようにしたら、もっとすごい、いい感じになるのではって、試したくなっています。中島敦の『文字禍』という小説があります。「『文字』というものが、人間から本当の体験を奪ってしまう、曲者なんだ」そういうテーマが巧みに描かれていて、もう「スピリチュアル小説」と言っていいと思います。「液晶画面も文字も見ない、本当に全てが生の体験だけ、そんな何日かを過ごしてみたい」そういう誘惑にとらわれています。  今日はイエス様、「ノアの箱舟」の話をしてくださっています。洪水が襲ってきて全部流されてしまった。それで、本当に大切なものだけが残った。そんなふうに私たちの生活でも、「これがなかったら大変だ」ってしがみついているもの、それが全部流されてしまう。たとえば、映像の、画面の世界、文字の世界、とかが全部流されてしまって、それでも残る方の、そっちの世界を見てみたい、そう思うわけです。4日間画面を見ない生活をしただけで、結構イケてる気がしたので、「本物の世界を見るって実はそんなに難しいことじゃないのでは。テレビもネットもない昔の人はみんな普通に本物の世界を見ていたんじゃないか。私にも見えるかも」って心は高鳴りますが、とにかく、何かを積み重ねることじゃなくって、取り去っていくこと、それでたどり着けるのが、本当に大切な世界なんだなって思えています。  今日、第二朗読でパウロが言っている「脱ぎ捨てる」ということです。今日、典礼暦年の始まり、「待降節第1主日」に語られるのは、いつも「世の終わり」ですが、どっちみち、終わりの時には、否応なく、私たちは全てのこの世でくっつけてきたものを脱ぎ捨てることになります。生きているうちから、少しずつでも、脱ぎ捨ててゆく練習も、してもいいかもしれません。

第一朗読  イザヤの預言(2:1-5)
アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて幻に見たこと。終わりの日に主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい、多くの民が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから、御言葉はエルサレムから出る。主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。


第二朗読  ローマの教会への手紙(13:11-14)
(皆さん、)あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい。


福音朗読  マタイによる福音(24:37-44)
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」

過去の主日説教

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