桃山教会

王であるキリスト王であるキリスト

菅原神父様のブログ「くまたくんの忘れない場所」の音声配信を文字起こしをしてくださったものです。

  • 2022年11月20日
  • 福音箇所
  • ルカ福音書23章35節~43節
  • この方は何も悪いことをしていない。(ルカ23:41)

 今日は「王であるキリスト」の主日です。イエス様が二人の強盗と一緒に十字架につけられている、そういう状況です。強盗の一人が「御国においでになるとき、わたしを思い出してください」、そう言うと、イエス様は「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と答えます。ここには、私たちにとっての二つ大きな恵みが示されています。一つは、「この強盗は、あらゆる悪行の限りを尽くしてきた。でも、ちゃんと救われる」ということ。そして、もう一つは、「この強盗は十字架に磔られているので、もはや動けない。償いの業も善い行いも何にもできない。でも、何にもしなくても、ちゃんと救われる。」ということ。この二つの事実、感謝を通り越して、愕然とさせられます。  「救い」とは、「ただひたすらキリストによりすがる」、それが全てです。きっと、私たちだって、この強盗のように、「もう何にもできない、何の楽しみもない、後は死ぬだけ」そんな絶望的な状況にでもならない限り、本当に神様に立ち返ることなんて、しないわけです。でも、そんな私たちに、イエス様は、「今日、あなたはわたしと一緒に楽園にいる」そう言ってくださいます。この「今日」という言葉、この間のザアカイとの物語を思い出しますね。あの時も「今日はあなたの家に泊まる。今日救いがこの家に訪れた」って、イエス様、大喜び。イエス様は嬉しかった。何か、あのシルヴァスタインの『おおきな木』という絵本も、思い出します。疲れ果てた男が、自分のせいで切り株一つになってしまった、りんごの木のところに戻ってきて、それに腰掛けた。そして、木は、それで嬉しかった。そうやって、あの絵本は、終わります。「帰ってきてくれて嬉しい」そんな、イエス様が嬉しい「今日」こそ、私が救われる「今日」、この「今日」に、私たちは誰もが必ずたどり着きます。たとえそれが、この強盗のように、人生最後の一瞬だったとしてもです。  「キリストが王である」って、最後はみんなキリストのもとに一つになる、そういうことでもあるはずです。それを高らかに歌っているのが「エフェソ書」の冒頭の賛歌です。「時が満ちれば救いの業が完成され、すべてのものがキリストのうちに一つに集められる」という、あの壮大なスケールの賛歌です。この賛歌に魅了されたオリゲネスは、「一人残らずすべてが救われる」という万民救済論を唱えて、異端になりましたが、でも「万民救済論なんて、人間を堕落させるだけだ」そんな言い草は、もっともらしい屁理屈にしか思えません。救いを知った人が堕落するなんて、実際にはありえないからです。それに、人が、本当に自分の罪を見つめたならば、「万民救済論以外に自分が救われる道なんて、どこにもない」って、見えてこないでしょうか。自分をちゃんと見つめたなら、「私は救われるけどあの人は救われない」だなんて、そんなおめでたいこと、誰が言えるでしょうか。この私こそが悪の限りを尽くしてきて、死を迎えている、この強盗です。でも、そんな私に、「あなたは今日わたしと楽園にいる」という、そんな「今日」が、必ず来ます。  もう、ただ、キリストの贖い、キリストのゆるしに、ひたすら感謝です。

第一朗読  サムエル記下(5:1-3)
(その日、)イスラエルの全部族はヘブロンのダビデのもとに来てこう言った。「御覧ください。わたしたちはあなたの骨肉です。これまで、サウルがわたしたちの王であったときにも、イスラエルの進退の指揮をとっておられたのはあなたでした。主はあなたに仰せになりました。『わが民イスラエルを牧するのはあなただ。あなたがイスラエルの指導者となる』と。」イスラエルの長老たちは全員、ヘブロンの王のもとに来た。ダビデ王はヘブロンで主の御前に彼らと契約を結んだ。長老たちはダビデに油を注ぎ、イスラエルの王とした。


第二朗読  コロサイの教会への手紙(1:12-20)
(皆さん、わたしたちは、)光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった御父に感謝(しています。)御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。


福音朗読  ルカによる福音(23:35-43)
(そのとき、議員たちはイエスを)あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

過去の主日説教

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