桃山教会

年間第32主日説教復活についての問答

菅原神父様のブログ「くまたくんの忘れない場所」の音声配信を文字起こしをしてくださったものです。

  • 2022年11月6日
  • 福音箇所
  • ルカ福音書20章27節~38節
  • 7人の兄弟がいました。(ルカ20:29)

 一番大切なものをどこに見つめていくのか。今日は、それが問われています。この世の命や生活、それが全てではなく、この世を超えるもっと大切な世界がある。それは、誰でも多かれ少なかれ知っているんだと思います。だからこそ、安倍元首相やエリザベス女王が亡くなった後、たくさんの方々が労を厭わずに、弔問や献花に出かけました。追悼の言葉や、花に込めた感謝の気持ちが、この世界を超えて死者のところに届く、そう信じているからです。  今日の福音の「レビラト婚」、つまり、子どもを残さずに死んだ夫の弟がその妻と結婚して子孫を残す、これは「家の存続のために自分のことは犠牲にする」わけで、これも、自分の命を超えた、もっと大切なものを見ている、ということです。  今、ウクライナの戦争が続き、世界各地でも緊張感が高まってきて、こうなってくると、どの国でも、防衛関係の方々は、もう「愛する人や家族、国民の命と生活を守る。そのために自分の命は捧げる」そういう気持ちで、臨戦態勢で、厳しい訓練の日々を過ごしていらっしゃるに違いありません。また、戦争に反対するため、命の危険を覚悟して、行動しておられる方もいます。こんなふうに、「この世での死を覚悟している、そういう方々に支えられて、私たちがこうして生きている。」そのことを、今ほど切実に感じる時はないんじゃないでしょうか。当然、私たち自身も、自分の命の本当の意味を、より切実に考えるようになってきているはずです。もとより、私たちは、必ず、誰もが、この世の命を終える時が来ます。その死を、ちゃんと見つめて、この人生の日々を生き続ける、その歩みが、ルカ福音書だけが描いている、イエス様の、ガリラヤからエルサレムまでの長い長い旅の日々に重なってきます。実は、今日の箇所では、イエス様、もうエルサレムに入っています。「ロバに乗って入場する」というお馴染みのシーンは、「枝の主日」でお祝いしますが、この季節では「スルー」なので、なんかいつの間にかエルサレムに入っていた、そんな感じですが。とにかく、イエス様、もう、都エルサレムにのぼってきました。さらに、これから十字架にのぼり、そして、天に昇ります。このガリラヤから始まって、エルサレムの十字架を通って、天にたどり着く、イエス様の受難の旅と、私たちの人生の、長く苦しい旅が重なって見えてくるように、この福音書は描かれています。そして、イエス様とつながっている私たちが、必ずたどるのもこの歩みで、必ず天の国にたどり着きます。この天の国が、私たち自身の日々の苦しみや悲しみ、弱さや醜さ、そんなすべての十字架に、満ち溢れています。「生きている」それは「十字架を背負う」ということ。そして、「生きている」私たちは、一番大切なものを、日々の自分の十字架の中に、見つめています。  イエス様の言葉が聞こえてきます。「神は生きている者の神なのだ。すべての人は神によって生きている。」私たちは、もう既に、死の向こう側の命を「生きている」、そのことに気がついていましょう。

第一朗読  マカバイ記二(7:1-2、9-14)
(その日、)七人の兄弟が母親と共に捕らえられ、鞭や皮ひもで暴行を受け、律法で禁じられている豚肉を口にするよう、王に強制された。彼らの一人が皆に代わって言った。「いったいあなたは、我々から何を聞き出し、何を知ろうというのか。我々は父祖伝来の律法に背くくらいなら、いつでも死ぬ用意はできているのだ。」(二番目の者も)息を引き取る間際に、彼は言った。「邪悪な者よ、あなたはこの世から我々の命を消し去ろうとしているが、世界の王は、律法のために死ぬ我々を、永遠の新しい命へとよみがえらせてくださるのだ。」彼に続いて三番目の者もなぶりものにされた。彼は命ぜられると即座に舌を差し出し、勇敢に両手を差し伸べ、毅然として言った。「わたしは天からこの舌や手を授かったが、主の律法のためなら、惜しいとは思わない。わたしは、主からそれらを再びいただけるのだと確信している。」そこで、王自身も、供の者たちも、苦痛をいささかも意に介さないこの若者の精神に驚嘆した。やがて彼も息を引き取ると、彼らは四番目の者も同様に苦しめ、拷問にかけた。死ぬ間際に彼は言った。「たとえ人の手で、死に渡されようとも、神が再び立ち上がらせてくださるという希望をこそ選ぶべきである。だがあなたは、よみがえって再び命を得ることはない。」


第二朗読  テサロニケの教会への手紙二(2:16-3:5)
(皆さん、)わたしたちの主イエス・キリスト御自身、ならびに、わたしたちを愛して、永遠の慰めと確かな希望とを恵みによって与えてくださる、わたしたちの父である神が、どうか、あなたがたの心を励まし、また強め、いつも善い働きをし、善い言葉を語る者としてくださるように。終わりに、兄弟たち、わたしたちのために祈ってください。主の言葉が、あなたがたのところでそうであったように、速やかに宣べ伝えられ、あがめられるように、また、わたしたちが道に外れた悪人どもから逃れられるように、と祈ってください。すべての人に、信仰があるわけではないのです。しかし、主は真実な方です。必ずあなたがたを強め、悪い者から守ってくださいます。そして、わたしたちが命令することを、あなたがたは現に実行しており、また、これからもきっと実行してくれることと、主によって確信しています。どうか、主が、あなたがたに神の愛とキリストの忍耐とを深く悟らせてくださるように。


福音朗読  ルカによる福音(20:27-38)
(そのとき、)復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。《「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。次男、三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」》イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」

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