桃山教会

年間第30主日説教ファリサイ派の人と徴税人

菅原神父様のブログ「くまたくんの忘れない場所」の音声配信を文字起こしをしてくださったものです。

  • 2022年10月23日
  • 福音箇所
  • ルカ福音書18章9節~14節
  • 二人の人が祈るために神殿に上った。(ルカ18:10)

  今日は、「ファイサイ派の人と徴税人のたとえ」が朗読されました。これは、自分は正しい人間だとうぬぼれて他人を見下している人々に対して、イエス様が語ったたとえ話です。「自分は正しい人間だとうぬぼれて他人を見下している人」というのが、他ならないこの私なのだということ、まずはこれを深く自覚することが必要だと思います。「自分はうぬぼれてなんかいないし、他人を見下すようなタイプの人間ではない」そう思っている人ほど、むしろ、ここに気をつける必要があります。  たとえば、現代は健康というのが一種の宗教のようになっていますが、それで、規則正しい生活をして、食生活にも気を配って、適度な運動も心がけて、そのような努力のおかげで健康を保っている、そういう人は、どうしても、酒タバコ飲み放題、こってりした食事ばかりしていて、運動全然しない、それで生活習慣病みたいになっている人を、どこかで軽蔑したり、「国の医療費を無駄遣いしているけしからん連中だ」って裁いていたり、そういうことを、無意識のうちに、心の中で行っているものです。今日のファイサイ派の人よろしく、「私は酒やタバコを飲み過ぎることもなく、この人たちみたいに生活習慣病になっていないことを感謝します。塩分やカロリーの取りすぎに気をつけているし、毎日15分は運動するようにしています。」みたいにうぬぼれて、不摂生な人を軽蔑している、そんなことは、ありがちではないでしょうか。このような私たちに、イエス様の名台詞「高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」という言葉が突き刺さる、わけです。酒を飲み過ぎることや、高カロリーのジャンクフードを食べ過ぎることや、ゴロゴロしてばかりで運動不足になること、それは、確かに、体には悪いですが、それ以上に、人を軽蔑して裁くこと、人を思いやれない心、これは相当霊的に悪いことに違いありません。私たちは、「そんなことだからあなたはダメなんだ」と、こう人を裁きたくなりがちです。でも、「わかっちゃいるけどやめられない」そういう部分は誰にでもあるはずです。この自分にだって必ずあるはずです。今日のこの徴税人は、そのことをしっかり自覚できていたから、だから、もう神様にすがるしかないと「主よ憐れみたまえ」という祈りがほとばしり出たんだと思います。「わかっちゃいるけどやめられない」そのようなことに対しては、人間的な努力によって何とか改善しよう、とすることよりも、祈りによって神様とのつながりを保ち続けることこそ、大切です。  今日の福音を注意して読んでみると、ファイサイ派の人は、心の中で「祈った」と書かれているのに対して、徴税人は、胸を打ちながら「言った」と書かれています。これは、とにかく、口で「主よ憐れみたまえ」と言うしかなかったということです。「祈り」というのは、決して難しいものではありません。難しく考えずに、「主よ憐れみたまえ」その言葉を口に出す、「言う」ということ、私たちも、この徴税人に見習うことができるはずです。そして、たとえ、口先だけの祈りであっても、「祈りは必ず神様に届く」ということ、忘れないようにいたしましょう。

第一朗読  シラ書(35:15-17、20-22)
主は裁く方であり、人を偏り見られることはない。 貧しいからといって主はえこひいきされないが、虐げられている者の祈りを聞き入れられる。 主はみなしごの願いを無視されず、やもめの訴える苦情を顧みられる。 御旨に従って主に仕える人は受け入れられ、その祈りは雲にまで届く。 謙虚な人の祈りは、雲を突き抜けて行き、それが主に届くまで、彼は慰めを得ない。 彼は祈り続ける。いと高き方が彼を訪れ、正しい人々のために裁きをなし、正義を行われるときまで。


第二朗読  テモテへの手紙二(4:6-8、16-18)
(愛する者よ、)わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。 わたしの最初の弁明のときには、だれも助けてくれず、皆わたしを見捨てました。彼らにその責めが負わされませんように。しかし、わたしを通して福音があまねく宣べ伝えられ、すべての民族がそれを聞くようになるために、主はわたしのそばにいて、力づけてくださいました。そして、わたしは獅子の口から救われました。主はわたしをすべての悪い業から助け出し、天にある御自分の国へ救い入れてくださいます。主に栄光が世々限りなくありますように、アーメン。


福音朗読  ルカによる福音書(18:9-14)
(そのとき、)自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

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