桃山教会

年間第29主日説教やもめと裁判官のたとえ

菅原神父様のブログ「くまたくんの忘れない場所」の音声配信を文字起こしをしてくださったものです。

  • 2022年10月16日
  • 福音箇所
  • ルカ福音書18章1節~8節
  • 裁判官は、しばらくの間は取り合おうとはしなかった。(ルカ18:4)

 今日もまた「ルカ福音書ならでは」という一癖あるたとえ話です。イエス様は、常々、神様のことを「強盗」にたとえたり、「泥棒」にたとえたりと、大胆なんですが、今日は、「極悪非道な裁判官」にたとえています。でも、この、「神を畏れず人を人とも思わない」という裁判官の、さらにうわてをいくのが、「しつこいやもめ」と言われている登場人物で、彼女は、「裁判をしてくれ」とひっきりなしにやってきて、この裁判官を散々な目に合わせるような女で、そして、ついには、さすがの裁判官も、「もううるさくてかなわない」と言って、彼女のために裁判をする羽目になるわけです。しかも、さっき言ったように、この話では神様がこの裁判官にたとえられているんですから、このやもめは、神をもしのぐ相当な強者ということになります。一体このやもめの何が、そんなにすごいんでしょうか。それは、やはり、「しつこいやもめ」と言われるだけあって、最大の武器は、その「しつこさ」です。ひたすら「裁判してくれ」「裁判してくれ」と言い続けた。これは「祈り続けた」ということです。つまり、こんなはちゃめちゃなたとえ話をしてまで、イエス様が伝えたかったことは「とにかく祈り続けなさい」ということです。はじめから、「イエスは気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるためにこの話をした。」と、ちゃんと書かれてますね。  祈りに、良いも悪いも、上手い下手もありません。祈りにおいて、たった一つの大切なことを、今日のたとえ話は教えてくれます。それは「祈りをやめない」ということです。でも、これは「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」という意味ではありません。それどころか、「祈りはどんな祈りだって、いつも百発百中だ」ということです。どんな祈りも、必ず神様に届いています。ただ、今日のポイントは、「裁判官はしばらくの間は取り合おうとはしなかった」という一文です。祈りは大抵即効性はありません。「祈りの達人」とも言えるアビラの聖テレサや、またマザー・テレサでさえ、祈りにおいて、無駄にしか思えないような無味乾燥な長い長い時間を体験していたといいます。どんなに祈っても、全く神様に無視されているようにしか思えない、退屈な、意味を感じられない、雑念ばかり浮かんできて、全然集中できていない、もう嫌々ながらの、面白くもないし、安らぎもない祈り。でも、それが、いかに大切なのかということです。  今日、イエス様は「祈る人を神がいつまでも放っておかれることがあろうか」と励ましてくれているつもりですが、でも、これは、逆に受け止めれば、「ある程度放っておかれる」ということに他なりません。それでも、しつこく「裁判してくれ」「裁判してくれ」と、嫌になりながらも、祈り続ける、全然手ごたえなんかなくても、そんな祈り、無味乾燥な祈りでも、雑念ばかりの祈りでも、口先だけの、形だけの祈りでも、全部、百発百中、ちゃんと神様を直撃しています。届いています。だから、私たちは、「うるさくてしつこい寡婦」になって、「極悪非道な裁判官」である神様に祈り続けましょう。

第一朗読  出エジプト記(17:8-13)
アマレクがレフィディムに来てイスラエルと戦ったとき、モーセはヨシュアに言った。「男子を選び出し、アマレクとの戦いに出陣させるがよい。明日、わたしは神の杖を手に持って、丘の頂に立つ。」 ヨシュアは、モーセの命じたとおりに実行し、アマレクと戦った。モーセとアロン、そしてフルは丘の頂に登った。モーセが手を上げている間、イスラエルは優勢になり、手を下ろすと、アマレクが優勢になった。モーセの手が重くなったので、アロンとフルは石を持って来てモーセの下に置いた。モーセはその上に座り、アロンとフルはモーセの両側に立って、彼の手を支えた。その手は、日の沈むまで、しっかりと上げられていた。ヨシュアは、アマレクとその民を剣にかけて打ち破った。


第二朗読  テモテへの手紙二(3:14-4:2)
(愛する者よ、)自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたは、それをだれから学んだかを知っており、また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。 神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。


福音朗読  ルカによる福音書(18:1-8)
(そのとき、)イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」

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