桃山教会

年間第28主日説教感謝するサマリア人

菅原神父様のブログ「くまたくんの忘れない場所」の音声配信を文字起こしをしてくださったものです。

  • 2022年10月9日
  • 福音箇所
  • ルカ福音書17章11節~19節
  • 足もとにひれ伏して感謝した。(ルカ17:16)

 「感謝行」というサイコセラピーがあるそうです。簡単に言えば「『ありがとうございます』という言葉を唱える。あたかも『南無阿弥陀仏』とお念仏を唱えるように、たびたび『ありがとうございます』を口にする。それで気持ちが前向きになってくる」そうです。確かに「『ありがとうございます』を口癖にしておけばよかった」、そんな出来事が最近ありました。大和西大寺の立ち飲み屋さんにいて、ちょうど帰ろうとした時に、お店の人から「何かもう1杯いかがですか」と声をかけられました。もう荷物にも手をかけていたタイミングだったし、そこは先払い制の店だったので「あ、いいです。ごちそうさま」と言って、すぐに店を出てゆく形になったんですが、何かこれだと、「声をかけられたのが気に食わなくていきなり帰ってしまった」そんな印象与えたかもしれないなと、後悔もしました。もし、「ありがとうございます」が自然に口から出るようになっていれば、「あ、いいです。ありがとうございます。ごちそうさま」となって、その方が、全然感じが良かったはずです。まぁこの例だと単なる「気配りのテクニック」みたいな話になってしまいますが、でも「感謝行」なるものの目指すところは、そんな世俗的なことに留まらない、もっと深い次元、たとえば「トイレを掃除すれば幸せになれる」とかにも通じる、「理屈では理解できない神秘的次元での成長」みたいなことが考えられているようです。でも、「感謝する」ということを極めて重要視するのは、サイコセラピーの専売特許ではなくて、どの宗教でも、ずーっと昔から、「感謝こそ何より大切だ」そのことが強調されています。  今日の福音もそうです。重い皮膚病患っていた10人の人が癒やされましたが、「あなたの信仰があなたを救った」そう言ってもらえたのは、イエス様のところに戻ってきて「ありがとうございます」と感謝した1人のサマリア人だけでした。つまり、病気が治ったり、問題が解決したりすることが救いなのではなくて、「感謝すること」が救いなのだ、という深い霊的な真実が語られています。  そもそも「感謝」って、何でしょうか。聖書には「どんなことにも感謝しなさい」とありますが、幸せな時に、自然に感謝の気持ちがこみ上げてくる、それはありますが、では、苦しい時、それでも意志の力で感謝しようとする、そこに、何か、意味があるんでしょうか。苦しくても「ありがとうございます」と感謝するのは、何か、無理をして、やせ我慢してる感じですが、でも、例の「感謝行」でも、むしろ、大切な点は、無理をしてでも、やせ我慢でも、口では、「ありがとうございます」を唱える。感情ではなくって、意志や、あるいは習慣としての「感謝」、要は、そこなんだと思います。「いいことなんて何もないから感謝なんかできない」と、ふてくされるんじゃなくって、「口先だけでも『ありがとう』を唱える」「無理にでも感謝しようとしてみる」そこにこそ、極めて本質的な意味が、見出されているという事に違いありません。  今日のサマリア人を心に留めて、いつでも、どこでも、何でも感謝する、そんな意志や習慣、とりあえず、身に付けようとしたらいかがでしょうか。

第一朗読  列王記下(5:14-17)
(その日、シリアの)ナアマンは神の人の言葉どおりに下って行って、ヨルダンに七度身を浸した。彼の体は元に戻り、小さい子供の体のようになり、清くなった。彼は随員全員を連れて神の人のところに引き返し、その前に来て立った。「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことが分かりました。今この僕からの贈り物をお受け取りください。」神の人は、「わたしの仕えている主は生きておられる。わたしは受け取らない」と辞退した。ナアマンは彼に強いて受け取らせようとしたが、彼は断った。ナアマンは言った。「それなら、らば二頭に負わせることができるほどの土をこの僕にください。僕は今後、主以外の他の神々に焼き尽くす献げ物やその他のいけにえをささげることはしません。」


第二朗読  テモテへの手紙二(2:8-13)
(愛する者よ、)イエス・キリストのことを思い起こしなさい。わたしの宣べ伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです。この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません。だから、わたしは、選ばれた人々のために、あらゆることを耐え忍んでいます。彼らもキリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得るためです。次の言葉は真実です。「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる。キリストを否むなら、キリストもわたしたちを否まれる。わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を 否むことができないからである。」


福音朗読  ルカによる福音(17:11-19)
イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

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