桃山教会

年間第26主日説教金持ちとラザロ

菅原神父様のブログ「くまたくんの忘れない場所」の音声配信を文字起こしをしてくださったものです。

  • 2022年9月25日
  • 福音箇所
  • ルカ福音書16章19節~31節
  • 犬もやって来ては、そのできものをなめた。(ルカ16:21)

 イエス様のたとえ話には、けしからん人たちがたくさん出てきます。お父さんのお金を使い果たす放蕩息子、ご主人様の財産を使い込む不正な管理人。でも、放蕩息子も不正な管理人も結果オーライで、最後は、お父さんに迎え入れてもらえたり、ご主人様から褒めてもらえたり、と、まぁハッピーエンドになっています。  それに比べると、今日の「金持ちとラザロのたとえ話」に出てくるこの「金持ち」に対する仕打ちは、あまりにも厳しすぎます。毎日贅沢に遊び暮らしていた、とはいうけれど、別に、放蕩息子や不正な管理人のような悪いことをしていた訳でもないのに、結末は火の地獄で悶え苦しむ、そうなってしまいました。一体、この「金持ち」の、何が、そんなに悪かったんでしょうか。それに、天国に行けたラザロの方だって、別に何か善いことをしていたわけではありません。だから、このたとえ話が言いたいことは、「悪い人は地獄に落ちる。善い人は天国に行ける」そこではなくって、「この世とあの世では境遇は逆さまになるんですよ」ということです。端的に、「この世でいい思いをしていたらあの世で苦しむ」、逆に、「この世で苦しんでいたらあの世で幸せになれる」という次元の話で、実際今日の個所のすぐ前で、イエス様は、単刀直入に「人に尊ばれるものは神に忌み嫌われる」という、言い訳無用のストレートな言葉を語っています。人間的に見ていい思いをしている、そのことが即、神に忌み嫌われる。だから、「あの世では地獄」ってなる訳で、こう聞くと、「何も悪いこともしてないのに不条理じゃないか」とも思いますが、でも、まさに、「悪いことをしていなければいいのか」と、そこが今日、問われている訳です。たとえば、今の、この私たちが当たり前だと思っている快適な生活や、豊富な食糧、これが実現している裏側で一体どれだけのラザロがいるのか、そういうことが、もし全く心にすら浮かばないのなら、それは、「悪いことは何もしていない」なんて、そんな呑気な話では、ないはずです。  今日問われているのは、「怠り」ということかもしれません。ミサの回心の祈りで、「思い、ことば、行い、怠りによって、たびたび罪を犯しました。」そう唱えますが、「怠り」という罪、見つめてみましょう。きっと、これは、「この私はなんのために生かされているのか」という「責任」という問題です。それで、この「金持ち」は、「自分の兄弟も地獄に落ちないように、ラザロを復活させて言い聞かせてほしい」と願いますが、アブラハムは「モーセと預言者、つまり、聖書の言葉に耳を傾けていないんだから、ラザロを復活させても無駄だ」そう、言います。このことは、私たちに、「聖書」が与えられていることの意味を、示してくれています。「聖書の言葉がここにある」、ということは、「死者が復活している」に等しい、それくらいのことです。だから、「聖書」を読み、祈る、そのことがきっと、私たちの目を、ラザロに開かせてくれます。「怠り」の罪が許され、私たちは、自分に与えられているこの、いのちの本当の意味を生きるようになっていけます。

第一朗読  アモス書(6:1,4-7)
(主は言われる。)災いだ、シオンに安住し サマリアの山で安逸をむさぼる者らは。お前たちは象牙の寝台に横たわり、長いすに寝そべり、羊の群れから小羊を取り、牛舎から子牛を取って宴を開き、竪琴の音に合わせて歌に興じ、ダビデのように楽器を考え出す。大杯でぶどう酒を飲み最高の香油を身に注ぐ。しかし、ヨセフの破滅に心を痛めることがない。それゆえ、今や彼らは捕囚の列の先頭を行き寝そべって酒宴を楽しむことはなくなる。


第二朗読  テモテへの手紙一(6:11-16)
神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。万物に命をお与えになる神の御前で、そして、ポンティオ・ピラトの面前で立派な宣言によって証しをなさったキリスト・イエスの御前で、あなたに命じます。わたしたちの主イエス・キリストが再び来られるときまで、おちどなく、非難されないように、この掟を守りなさい。神は、定められた時にキリストを現してくださいます。神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。この神に誉れと永遠の支配がありますように、アーメン。


福音朗読  ルカによる福音(16:19-31)
(そのとき、イエスはファリサイ派の人々に言われた。)「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」

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