桃山教会

年間第25主日説教不正な管理人のたとえ

菅原神父様のブログ「くまたくんの忘れない場所」の音声配信を文字起こしをしてくださったものです。

  • 2022年9月18日
  • 福音箇所
  • ルカ福音書16章1節~13節
  • 小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。(ルカ16:10)

 イエス様のたとえ話には、素直に納得できないものも多いんですが、それにしても、さすがに今日の「不正な管理人のたとえ」、ここまで来ると、もうこれは放送事故レベル、辞職に追い込まれそうな問題発言、「いくら神様でもこんなこと言ってていいのか」そんな感じさえします。公金横領していた上に、それが発覚してクビになりそうになったら、今度は借用証書を不正に書き換えさせて、さらにご主人様に損害を与えた。そんな管理人を、なんと当のご主人様が、褒めちぎっている、という、「新約聖書」きっての不可解なたとえで、和田幹男神父様も「このお話はもうお手上げだ」と書いています。  こういう「ルカ福音書」にしかないたとえ話は、どれも一癖あるので、「ルカの仕業じゃないのか」「盛ってるんじゃないのか」「いくら聖書だからといってこんなこと書いていいのか」って、それもありますが、ただどうであろうと、「聖書の言葉は、神の言葉で、神聖なもの」、それは揺るぎません。だからこうゆう理解不能なたとえ話に、人間が、勝手な教訓をひねり出して、こじつけてしまうのは、かえって虚しいし、危険かもしれません。それは、たとえば、私たちがお寺に行って、本堂に佇んでいらっしゃる観音様と出会った時、「これおかしいじゃないか。頭の上に顔がいっぱいくっついている」とか「手がこんなたくさんあるなんて絶対納得できない。ふざけてる」だなんて、決して、思わないはずです。ただただ、そのお姿を見つめて、心が静まってゆき、涅槃に導かれていくような、そんな思いにいざなわれていきます。顔が11個あっても、手が千本あっても、私たちは観音様のお姿、その慈悲の心に、深く打たれることができます。きっと、今日の福音のような、人間的に考えたらおかしな聖書の言葉を読むときも、これと同じなんだと思います。福音書の言葉を聞いて、そのまま素直に受け入れる心に、神様の愛と慈しみは染み通っていきます。「ふざけたたとえ話だ」「ふざけた仏像だ」「放送事故だ」「問題発言だ」とか、ブーブー言ってちゃ、ダメなわけです。それでもし、観音様を拝んでいて、心が清められているときに、お坊さんが出てきて、「まぁこれは手を変え、品を変え、いろんな形で助けてもらいたいって思ってる人間の願望が作り出した空想の産物なんですよ」だとか、こう人間的な解説をし始めたら、もう、「ふざけるな」「黙ってろ」「引っ込んでろ」という話で、それと同じで、今日のような福音が朗読された後、神父も、余計な、人間的な、つまらない、こじつけ解説は、しない方がいいですね。どうしても解説を読みたければ、ネットでいくらでも調べられますので、そちらをご覧ください。よくあるのは「ネバーギブアップ。もうしくじってもあきらめないで、すぐに次の手を打ちなさい。もう世の終わりも迫っているんですから」という類の解説で、これは私も、まぁ神父を辞めさせられたら次は何をして生きていこうって、身には迫ってきますが、でも、やはりちょっと、苦しい解釈のようにも思えます。  そんなことで、今日はこれで失礼します。今日のたとえ話はそのまま、飲み込んでおいてください。

第一朗読  アモス書(8:4-7)
このことを聞け。貧しい者を踏みつけ、苦しむ農民を押さえつける者たちよ。お前たちは言う。「新月祭はいつ終わるのか、穀物を売りたいものだ。安息日はいつ終わるのか、麦を売り尽くしたいものだ。エファ升は小さくし、分銅は重くし、偽りの天秤を使ってごまかそう。弱い者を金で、貧しい者を靴一足の値で買い取ろう。また、くず麦を売ろう。」主はヤコブの誇りにかけて誓われる。「わたしは、彼らが行ったすべてのことをいつまでも忘れない。」


第二朗読  テモテへの手紙一(2:1-8)
(愛する者よ、)まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。これは定められた時になされた証しです。わたしは、その証しのために宣教者また使徒として、すなわち異邦人に信仰と真理を説く教師として任命されたのです。わたしは真実を語っており、偽りは言っていません。だから、わたしが望むのは、男は怒らず争わず、清い手を上げてどこででも祈ることです。


福音朗読  ルカによる福音(16:1-13)
(そのとき、イエスは、弟子たちに言われた。)「《ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。》「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

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