桃山教会

年間第24主日説教見失った羊と無くした銀貨

菅原神父様のブログ「くまたくんの忘れない場所」の音声配信を文字起こしをしてくださったものです。

  • 2022年9月11日
  • 福音箇所
  • ルカ福音書14章25節~33節
  • 見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください。(ルカ15:6)

今日の第二朗読の「テモテへの手紙」で、パウロはこう言っています。「『キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。」これこそ、今日のすべて、ではないでしょうか。「罪人の救い」ということこそ、キリスト教の真髄であって、つべこべ言わずに、これを、私たちは受け入れるべきです。もちろん、ここで「罪人」と言われているのは、この私自身のことです。「よく生きたい」そうは思っていても、そうできないのが、私たち罪人の現実です。  今日の福音では、「無くした銀貨のたとえ」が読まれます。イエス様のたとえにありがちですが、このたとえも、決して素直に納得できるような話ではありません。銀貨が無くなったら、それを一生懸命探す、そこまではわかりますが、それを見つけた暁に、近所の人たちを呼び集めて「一緒に喜んでくれ」だなんて、「普通そんなことしないだろ」そう思ってしまいますし、呼び集められた人たちだって、「なんで一緒に喜ばなくっちゃいけないんだ」って、思うはずです。でも、敢えて、こうゆう、みんなが首をひねるような話を、あたかも当然のように言ってのける、というのも、イエス様の作戦です。すんなり納得できない、無理のある話ほど、人々の心には、いつまでも残り続けます。そして、きっとある時、ふと、「あっ、あの見失われた銀貨って、私のことだったんだ」と気がつきます。暗い家の隅の何かの隙間に、埃にうずもれて捨て置かれている、そんな気持ちになること、誰にでもあります。でもそれを、一生懸命探してくれている方がいる。ともし火をつけて、家の中を隅々まで掃いて、埃まみれになりながら、「何が何でも見つける」って念を入れて、私を探してくれている、そんな方がいる。そういうことが、リアリティーを持って迫ってくる時がやってきます。その時、この私という1枚の銀貨を、やっとの思いで見つけ出してくださったその方が、恥も外聞もなく、近所の人々を呼び集めて、「見つかりました。一緒に喜んでください」って、大はしゃぎしている。その光景、その神様のお姿、どんなにありがたく、身にしみることでしょうか。  「よく生きよう」そう思っても、私たち、自分の力ではできません。でも、そんな私たちが、少しでも「よく生きる」なんてことができるとしたら、それは神様の愛と慈しみに深く触れた時だけです。その時はもはや、自分の力で「よく生きる」、のではなくて、頑なな自分が打ち破られて、神様の働きがこの私を生きるようになる時です。  今日は、悔い改めの大切さが語られてはいますが、でも一方で、迷子になった子羊にしろ、無くなった銀貨にしろ、別に、悔い改めたわけじゃなくって、一方的に探し出してもらえた、というだけの話で、神様の愛と慈しみだけが、ただただ前面に出ているたとえ話です。だから、今この時も、私が落ち込んだり、ひねくれたり、ふてくされたりしている時も、慈しみ深い神様が、この私を探し続けていること、必ず見つけ出してくださること、思い出しましょう。

第一朗読  出エジプト記(32:7-11、13-14)
(その日、)主はモーセに仰せになった。「直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげて、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ』と叫んでいる。」主は更に、モーセに言われた。「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。」モーセは主なる神をなだめて言った。「主よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる御力と強い御手をもってエジプトの国から導き出された民ではありませんか。どうか、あなたの僕であるアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたは彼らに自ら誓って、『わたしはあなたたちの子孫を天の星のように増やし、わたしが与えると約束したこの土地をことごとくあなたたちの子孫に授け、永久にそれを継がせる』と言われたではありませんか。」主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された。


第二朗読  テモテへの手紙一(1:12-17)
(愛する者よ、わたしは、)わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように、アーメン。


福音朗読  ルカによる福音(15:1-32)
(そのとき、)徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」

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