桃山教会

年間第23主日説教弟子の覚悟

菅原神父様のブログ「くまたくんの忘れない場所」の音声配信を文字起こしをしてくださったものです。

  • 2022年9月4日
  • 福音箇所
  • ルカ福音書14章25節~33節
  • あの人は建て始めたが、完成することはできなかった。(ルカ14:30)

今日の福音によると、大勢の群衆がイエス様にくっついて、ぞろぞろと歩いてきていたようです。それに対して、イエス様は、振り返って、「家族を憎め。自分の命を憎め。持ち物は一切捨てろ。それが嫌ならついてくるな。」みたいな厳しい言葉を浴びせています。物見遊山のように、野次馬根性で、ダラダラとくっついてきている、そんな風情の人もいたわけで、それに対して、イエス様が、例によって、怒りを爆発させて怒鳴りつけた、そんな状況が、思い浮かびます。そういう特別な状況での言葉だったわけで、必ずしもこれは、「一般的にキリスト者たるものは全て家族も命も持ち物も全部捨てる覚悟が必要なのだ」とか、そういうことでもないと思います。ただ、どのような宗教であっても、「この世への執着を捨てる」この方向性は、不可欠です。  今日、イエス様は二つのたとえ話、「塔を建てる人のたとえ」と「戦争で敵を迎え撃つ王様のたとえ」を語って、そして、「事を成す前には、まずじっくりと腰を据えて考えなさい」そう言います。でも、これも「キリスト教徒になる前に、本当にそれでいいのかよく考えてみなさい」ということでもありません。むしろ、イエス様は、常日頃は、「明日がどうなるか思い悩むな」「風は思いのままに吹く」「あらかじめ準備などするな」などなど、「案ずるよりも産むが易し」、どちらかというとそういう路線ですから、深く考えずに、とにかくイエス様についていけば、いいわけです。「よく考えて充分納得してから洗礼を受ける」なんて言っていたら、一生洗礼を受けられないと思います。「見切り発車」もいとわない、そんな態度こそ、必要です。だから、今日のたとえ話も、「弟子になる前によく考えろ」ということじゃなくて、むしろ、「執着を捨てるべし」、そっちがメインテーマです。今日の二つのたとえ話の中心にある一番重要な言葉は、「まず腰を据えて」という言葉です。つまり、必要なのは「よく考えること」ではなくて、「まず座るということ」です。「座る」ということは、バタバタとやってきたことを全部休みにするということですから、それは「捨てる」と同じです。この世的な悩みでアップアップしている時、ちょっと座って、神様だけに心を向けてみる。そうすれば、この世的に全然大丈夫じゃなくても、でも本当は全然大丈夫だった、そのことが見えてくるはずです。  最近、私は和辻哲郎の『古寺巡礼』を再読して、仏像にはまっていて、奈良に行って、仏様の前に座って、お姿をじっと眺めていると、それだけで、「もう全て捨てても全然大丈夫だ。こうまでして私たちを救おうとしてくださっている力が、宇宙にはあるんだから、」って、何か、「やっぱり、本当に人を救う力があるのは神仏だけだ」って、そこに、とても心が開かれる思いが溢れてきます。自分の家族もかけがえのない尊いものですが、でも、家族の誰かに救いを求めたりしてしまうと、それは、べったりとした不健全な依存関係になってしまい、結果的に、家族を苦しめることにもなります。  「家族を憎め」そうおっしゃっているイエス様の言葉の、深いところに目を向けて、本当に自分を救ってくださる方にこそ、思う存分、べったりと、依存して参りましょう。

第一朗読  知恵の書(9:13-18)
「神の計画を知りうる者がいるでしょうか。主の御旨を悟りうる者がいるでしょうか。死すべき人間の考えは浅はかで、わたしたちの思いは不確かです。朽ちるべき体は魂の重荷となり、地上の幕屋が、悩む心を圧迫します。地上のことでさえかろうじて推し量り、手中にあることさえ見いだすのに苦労するなら、まして天上のことをだれが探り出せましょう。あなたが知恵をお与えにならなかったなら、天の高みから聖なる霊を遣わされなかったなら、だれが御旨を知ることができたでしょうか。こうして地に住む人間の道はまっすぐにされ、人はあなたの望まれることを学ぶようになり、知恵によって救われたのです。」


第二朗読  フィレモンへの手紙(9b-10、12-17)
(愛する者よ、)年老いて、今はまた、キリスト・イエスの囚人となっている、このパウロが。監禁中にもうけたわたしの子オネシモのことで、頼みがあるのです。わたしの心であるオネシモを、あなたのもとに送り帰します。本当は、わたしのもとに引き止めて、福音のゆえに監禁されている間、あなたの代わりに仕えてもらってもよいと思ったのですが、あなたの承諾なしには何もしたくありません。それは、あなたのせっかくの善い行いが、強いられたかたちでなく、自発的になされるようにと思うからです。恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません。その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです。だから、わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、オネシモをわたしと思って迎え入れてください。


福音朗読  ルカによる福音(14:25-33)
(そのとき、)大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」

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