桃山教会

年間第22主日説教へりくだる者は高められる

菅原神父様のブログ「くまたくんの忘れない場所」の音声配信を文字起こしをしてくださったものです。

  • 2022年8月28日
  • 福音箇所
  • ルカ福音書14章1節、7~14節
  • この方に席を譲ってください。(ルカ14:9)

 今日は「傲慢と謙遜」ということがテーマです。イエス様は、「高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」という「永久の真理」を教えてくださっています。  皆さんは、自分のことを「傲慢」だと思うでしょうか。それとも「謙遜」だと思うでしょうか。誰もが、必ず、その両方の面を持っているはずです。100%傲慢な人、とか、100%謙遜な人、とか、そんな人がいるわけじゃなくって、傲慢も謙遜も、どっちも本当の私です。これは、たとえば、私たちに、誰か好きな人がいる場合でも、実は、その「好き」という気持ちの中には、「愛」と「憎しみ」の両方があると言われますし、また、子育てをするとか、介護や看病をするとか、そういう場合も、「慈しみの心で喜んで尽くす」のも私だし、「なんでこんなことしなくちゃいけないんだとイライラしてくる」のも私です。とにかく、私の中には、いろいろな私がいて、代わり番こに、表に出てきます。そんな、いろいろな私のうちの、どれか一つだけを取り立てて、「これが本当の私なんです」とか、決めつけることなど、できません。「傲慢」も本当の私、「謙遜」も本当の私、自己中心の私もいれば、自分を犠牲にして奉仕する私もいます。そんなたくさんの私のことを、もっと大きな眼差しで見つめてみましょう。その眼差しとは、神様が世界中の一人ひとりに注ぐような、そんな眼差しです。「この私はよい子だ」「この私はダメな子だ」みたいに、裁かないで、自分の中のすべての私を、そっくりそのまま受け入れてあげる。神様がすべての人を受け入れてくださっているようにです。  「フィリピ書」2章に、「相手を自分よりも優れた者と思いなさい」という言葉があります。どんな嫌いな私が出てきても、どんなに認めたくない私が出てきても、その私を、「優れた者」と思って、「いてくれてありがとう」って受け入れてゆく姿勢、そういう、自分に対する「謙遜」ということも、とても大切ではないでしょうか。「謙遜」とは「裁かない」ということです。私たちは、つい、裁いてしまいます。他人のことも、自分のことも。「お前なんかダメだ」ってダメ出ししてしまう。でも、「ヤコブの手紙」4章に「裁くあなたって一体何者なんですか」という言葉があります。神様が裁いてもいないのに、他人にも、自分にも、勝手なダメ出しをする、そんな「傲慢」を戒めている言葉です。「傲慢」というのは「勝手に裁く」ということです。そもそも、神様は私たちを全然裁いていない。ダメ出しなんかしていない。それどころか、どんな人に対しても、この私に対しても、全く見返りを求めない愛を、惜し気もなく、注いでくださっています。  今日イエス様、「宴会を催す時にはお返しができないような人たちを招きなさい」そう言っています。「神様にお返し」なんて絶対できるわけがないのに、それでも、この私を愛してくださっているのが神様です。この愛がわかった時に、私にも、本当の愛が、見返りなんてなんにも求めない「愛」が生まれるはずです。「見返りを求めないで愛する」ってほんとに素晴らしい自由だと思います。それは、どんな見返りなんかよりも、はるかに大きな、神様の愛を、もう既にいただいているんだから、もうなんにも要らないという、そんな自由です。

第一朗読  シラ書(3:17-18、20、28-29)
子よ、何事をなすにも柔和であれ。そうすれば、施しをする人にもまして愛される。 偉くなればなるほど、自らへりくだれ。そうすれば、主は喜んで受け入れてくださる。 主の威光は壮大。主はへりくだる人によってあがめられる。 高慢な者が被る災難は、手の施しようがない。彼の中には悪が深く根を下ろしている。 賢者の心は、格言を思い巡らし、知者の耳は、格言を熱心に聴く。


第二朗読  ヘブライ人への手紙(12:18-19、22-24)
(みなさん、)あなたがたは手で触れることができるものや、燃える火、黒雲、暗闇、暴風、ラッパの音、更に、聞いた人々がこれ以上語ってもらいたくないと願ったような言葉の声に、近づいたのではありません。あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、新しい契約の仲介者イエス(なのです。)


福音朗読  ルカによる福音(14:1,7-14)
安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。 イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」

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