桃山教会

年間第21主日説教狭い戸口

菅原神父様のブログ「くまたくんの忘れない場所」の音声配信を文字起こしをしてくださったものです。

  • 2022年8月21日
  • 福音箇所
  • ルカ福音書13章22~30節
  • 狭い戸口から入るように努めなさい。(ルカ13:24)

 「狭い戸口から入りなさい」この言葉を聞くと、小学生の頃よく見た夢を思い出します。土手沿いの道を歩いていって、草木に覆われた暗い場所にある、もう誰も住んでいないような古い家にたどり着きます。そして、その家の壁の、子どもがやっと一人通れるくらいの狭い隙間から、こう、体をすぼめながら、何とか通り抜けて中に入っていくと、そこには、いつもの学校の教室の風景が現れます。担任の先生もいて、クラスメイトもいて、みんな、入ってきた私を迎えてくれる。それで、とっても嬉しい気持ちになって、そこでいつも目が覚めました。それはとっても幸せな気持ちだったので、時には、狭い隙間を体をすぼめながら通り抜けていくところで、「ああ、この後みんなが迎えてくれるあの場面になる」って、嬉しくなって、あまりの嬉しさに、そこで目が覚めてしまって、その幸せが味わえずに、すごく残念な気持ちになることさえありました。いつの間にか、その夢を見ることもなくなりましたが。  パウロは「フィリピの信徒への手紙」で、「私たちの本国は天にあります」と語っていますし、また、リジューのテレジアは、この世を、島流しの地にたとえています。これらは決して「この世のことに価値なんてない」とかそういう話ではなくて、むしろ、「この地上で私たちが悲しみや苦しみの日々を、誠実に真摯に忍耐のうちに生きる、その覚悟が定まった時に見えてくる、この世を超える私たちの故郷」を語っている言葉なんだと思います。「狭い戸口から入りなさい」という表現は、地上で困難や労苦という自分の十字架を担う、その意味や価値を示してくれています。  羽生結弦さんが引退会見の時に、「僕にとって羽生結弦っていう存在は常に重荷です」そう言っていました。きっと、私たちすべての人間にとっても、この世での自分というものは重荷、なんだろうし、それを羽生さんのように「これは重荷だ」って覚悟を決めて、それを担って歩む決心を選んだ時に、狭い戸口の向こう側にある、「ああここだ。こっちなんだ。こっちが本物なんだ」っていう永遠の故郷が、垣間見えてくるんじゃないでしょうか。だから、皆さんも、自分のフルネームを入れて「私にとって〇〇〇〇っていう存在は常に重荷です」なんて言えたらかっこいい、し、なんか、そう言えばもう、どんな自分の重荷でもしっかり背負っていけるように思えてこないでしょうか。そんな狭い戸口を通り抜けたところ、今日の福音でいったら、そこはアブラハムもイサクもヤコブも、もうみんながいて、宴会を開いていて、そこは神の国と呼ばれていて、そこに、私たちも迎え入れてもらって、もう、嬉しくてたまらないところ、そうなるわけです。  今日の第二朗読の「ヘブライ書」では「鍛錬」という言葉がキーワードになっていました。「あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っています。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか」そう書かれていました。  体をすぼめて狭い戸口を通り抜けていくような私たちの地上の鍛錬の歩み、でも、そこを通り抜けた向こうの、本国を、故郷を、見つめて、「自分」という重荷を今日も担っていきましょう。

第一朗読  イザヤ書(66:18-21)
(主は言われる。)わたしは彼らの業と彼らの謀のゆえに、すべての国、すべての言葉の民を集めるために臨む。彼らは来て、わたしの栄光を見る。わたしは、彼らの間に一つのしるしをおき、彼らの中から生き残った者を諸国に遣わす。すなわち、タルシシュに、弓を巧みに引くプルとルドに、トバルとヤワンに、更にわたしの名声を聞いたことも、わたしの栄光を見たこともない、遠い島々に遣わす。彼らはわたしの栄光を国々に伝える。彼らはあなたたちのすべての兄弟を主への献げ物として、馬、車、駕籠、らば、らくだに載せ、あらゆる国民の間からわたしの聖なる山エルサレムに連れて来る、と主は言われる。それは、イスラエルの子らが献げ物を清い器に入れて、主の神殿にもたらすのと同じである、と主は言われる。わたしは彼らのうちからも祭司とレビ人を立てる、と主は言われる。


第二朗読  ヘブライ人への手紙(12:5-7、11-13)
(皆さん、あなたがたは、)子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。


福音朗読  ルカによる福音(13:22-30)
(そのとき、)イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」

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