桃山教会

年間第20主日説教分裂をもたらす

菅原神父様のブログ「くまたくんの忘れない場所」の音声配信を文字起こしをしてくださったものです。

  • 2022年8月14日
  • 福音箇所
  • ルカ福音書12章49~53節
  • 二人は三人と対立して分かれる。(ルカ12:52)

 「わたしが来たのは地上に火を投ずるためである。平和ではなく分裂をもたらすために来た。」このようなイエス様の強烈な言葉は、その心に燃えていた「真実の愛」の言葉だと思います。一見、とっつきにくいけれども、こうゆう本当の愛の言葉は、一度耳にしたら必ず、いつまでも、聞いた人の心の中に生き続けていきます。  そして、「わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまでわたしはどんなに苦しむことだろう。」この言葉は、イエス様だけではなくて、私たちにも、それぞれの洗礼、つまり、受難と十字架があって、それが終わるまで、私たちもまた苦しむ、そのことを掛け値なしに語っています。「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし」という徳川家康の言葉もあることですし、「わたしは平和をもたらすために来たのではない」という言葉も心に留めて、人生が、「苦しみである」ということ、それを観念して受け止めて、でも、だからこそ、私たちは本当のいのちを、愛を、生きることができる、この過越の神秘、悟らせていただきましょう。  今日のイエス様の言葉を聞いていて思い出してしまうのは、「ヨハネ福音書」の「人は新たに生まれなければならない」という言葉です。「生みの苦しみ」とはよく言ったもので、新たに生まれる時は必ず苦しみが伴います。順風満帆に一生涯を終える人など一人もいません。誰もが必ず、苦しみに直面して、そして、苦しみが避けられないことを理解して、苦しみを受け入れて生きようとしていきます。こうして、今日の第二朗読の「ヘブライ書」に書かれている「自分に定められている競走を忍耐強く走り抜く」という十字架の道を、覚悟を持って、歩み始める時に、人は、新たに生まれていくんだと思います。  でも、この歩みの中で、人はそれまで見えていなかった深い慰めに出会います。それは、この世から来ている慰めではなく、神から来ているものに違いありません。「マタイ福音」の言葉を借りれば「虫が食うことも、錆び付くこともなく、盗人が盗み出すこともできない」そんな慰めであり、その慰めの源こそ、イエス・キリストです。新しく生まれた人の人生はいつもこの源に向かいます。  時に、イエス様の言葉はとても厳しく、近づきがたいものに感じられますが、でも、私たちの人生には、厳しい、心に突き刺さる、強烈な言葉を必要とする、そういう時があります。「ヘブライ書」4章に、とても印象的にこう書かれています。「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんなもろ刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができます。」  イエス様の厳しい言葉としっかりと向き合い、その「生きている真実の愛の言葉」が、もろ刃の剣として、今の自分を刺し貫いてくれることを知りましょう。

第一朗読  エレミヤ書(38:4-6、8-10)
(その日、役人たちはエレミアについて)王に言った。「どうか、この男を死刑にしてください。あのようなことを言いふらして、この都に残った兵士と民衆の士気を挫いています。この民のために平和を願わず、むしろ災いを望んでいるのです。」ゼデキヤ王は答えた。「あの男のことはお前たちに任せる。王であっても、お前たちの意に反しては何もできないのだから。」そこで、役人たちはエレミヤを捕らえ、監視の庭にある王子マルキヤの水溜めへ綱でつり降ろした。水溜めには水がなく泥がたまっていたので、エレミヤは泥の中に沈んだ。エベド・メレクは宮廷を出て王に訴えた。「王様、この人々は、預言者エレミヤにありとあらゆるひどいことをしています。彼を水溜めに投げ込みました。エレミヤはそこで飢えて死んでしまいます。もう都にはパンがなくなりましたから。」王はクシュ人エベド・メレクに、「ここから三十人の者を連れて行き、預言者エレミヤが死なないうちに、水溜めから引き上げるがよい」と命じた。


第二朗読  ヘブライ人への手紙(12:1-4)
(皆さん、わたしたちは、)このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。


福音朗読  ルカによる福音(12:49-53)
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる。」

過去の主日説教

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