桃山教会

年間第19主日説教目を覚ましている僕

菅原神父様のブログ「くまたくんの忘れない場所」の音声配信を文字起こしをしてくださったものです。

  • 2022年8月7日
  • 福音箇所
  • ルカ福音書12章32~48節
  • 腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。(ルカ12:35)

 先月、参議院の選挙も行われましたが、国会には、多数の議席を有する大きな政党もある一方、議員数たった一人、というような政党もあります。私たちは、多数決に慣れていますので、大きな政党こそ重要で、もう議員数1名では、何もできないだろう、みたいに考えてしまいがちです。でも、むしろ、そういう政党があるからこそ、健全で豊かな民主主義が、実現でき、少数政党は、大切で欠かせない役割を担っています。  今日、イエス様は、弟子たちに「小さな群れよ、恐れるな」そうおっしゃっています。サドカイ派やファイサイ派などに比べると、イエス様のグループなど、取るに足りないと思われていたはずです。でも、「少数派だからこそ、強い影響力を発揮できる」そういうことはよくあります。実際、日本には、全人口の1%程しかキリスト教徒がいない。けれども、社会に対して、キリスト教が持っている意味は、決して小さくありません。「多数派よりも少数派が、かけがえのない存在感を発揮する」これは、自分の内面においても、そうではないでしょうか。自分の中にはたくさんの「私」がいます。自己中心的な私、怠け者の私、欲張りな私、見栄をはる私、そっちの方が自分の心の中の多数派を占めていますが、でも、「神様のように人を愛したい私」、そんな少数派も、必ず自分の中にあること、気づくのではないでしょうか。そして、それがどんなに目立たない少数派だったとしても、私たちはその声を決して無視、していないはずです。  ところで、今日の福音では、帰ってくるご主人様のたとえ話が語られています。「忠実に、主人の帰りを待っていなさい」ということです。今、もう夢も希望もない、人生を終わらせたい、刑務所に入りたい、死刑になりたい、そんな理由での通り魔事件が多発しています。事件を起こさないとしても、生きる意味や希望を見出せずに、不安や焦りや、いき詰まり、に苛まれてしまう、そういうことは、あるはずです。私もそんな気持ちになることもあります。そんな私たちに、今日の福音は、「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」、そう教えます。主人がいつ帰ってくるか分からない。いつまでこれが続くのか、不安や焦り、退屈やいき詰まり、でも、それでも、忠実に待つ。投げやりにならずに、地道に、できることをして、この時を、忍耐のうちに乗り切る、という、そんな忠実さ。その果てには、こう書かれています。「主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。」やっと帰ってきたご主人様が、僕に給仕してくれる。破格の待遇です。雨宮慧神父さまによると、この、「そばに来る」と訳されている言葉は、聖書では度々、神様が現れる時に用いられる言葉なのだそうです。神様との出会いの日は近づいています。たとえ、今が幸せではなくても、夢も希望も持てなくても、孤独でも、不安でも、それでも、忠実に、今日1日、できることをして、乗り切ってまいりましょう。この「忠実」そのものに、もう大きな価値があります。

第一朗読  知恵の書(18:6-9)
あの(過越しの)夜のことは、我々の先祖たちに前もって知らされており、彼らはあなたの約束を知ってそれを信じていたので、動揺することなく安心していられた。神に従う人々の救いと、敵どもの滅びを、あなたの民は待っていた。あなたは、反対者への罰に用いたその出来事で、わたしたちを招き、光栄を与えてくださった。善き民の清い子らは、ひそかにいけにえを献げ、神聖な掟を守ることを全員一致で取り決めた。それは、聖なる民が、順境も逆境も、心を合わせて受け止めるということである。そのとき彼らは先祖たちの賛歌をうたっていた。


第二朗読  ヘブライ人への手紙(11:1-2、8-19)
(皆さん、)信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです。信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです。それで、死んだも同様の一人の人から空の星のように、また海辺の数えきれない砂のように、多くの子孫が生まれたのです。《この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。この独り子については、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われていました。アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。》


福音朗読  ルカによる福音(12:32-48)
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)《「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」》「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」《そこでペトロが、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と言うと、主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり食べたり飲んだり酔うようなことになるならば、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は更に多く要求される。」》

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