桃山教会

年間第18主日説教愚かな金持ちのたとえ

菅原神父様のブログ「くまたくんの忘れない場所」の音声配信を文字起こしをしてくださったものです。

  • 2022年7月31日
  • 福音箇所
  • ルカ福音書12章13~21節
  • お前が用意したものは、いったい誰のものになるのか。(ルカ12:19)

 今日は「愚かな金持ちのたとえ」が朗読されました。このお金持ちの人は、せっかく自分の畑が豊作だったのに、豊作を喜ぶことを忘れて、逆に、悩んじゃっています。「どうしよう。作物をしまって置く場所がない」って悩んで、そしてその結果、「倉を壊してもっと大きいのを建ててそこに穀物や財産をみなしまっておこう」と、そうなるわけです。  でも、実は、聖書では「蓄える」「取っておく」「貯めておく」ということは、概して「良くないこと」とみなされています。たとえば、モーセの時代、荒れ野を旅する民に、神様は「マナ」と呼ばれる食べ物を与えてくださいましたが、「マナを翌朝まで残しておいてはいけない」そう命じました。それに違反して翌朝まで残しておかれたマナは、みんな腐ってしまいました。それから、イエス様が弟子たちを派遣した時も、「袋を持って行くな」と命じましたが、これはつまり、「もらったお金を袋に入れて貯め込んでいてはいけない」ということでした。「宵越しの金は持つな」といったところです。今、日本人は、「貯金のし過ぎだ」とか、「企業の内部留保が莫大過ぎる」とか、そんなことも言われますが、そうやって、人がお金を貯め込んでしまうのは、やはり、将来に、心配や不安があるから、それに備えておこう、そういう気持ちが強いからだと思います。それに対して、聖書の基本的な考えは、「必要なものは人間があくせく貯めて準備しなくったって、神様が、ちゃんと必要なその時に与えてくれるから、余計な心配はするな」そういうスタンスです。荒れ野のマナだって、心配して翌日の分まで確保しなくったって、翌日にはまた神様がちゃんとその日の分をくださるんだから」ということで、「明日のことまで思い煩うな。明日は明日が思い煩う。今日の苦労は今日だけで充分である。」イエス様がおっしゃる通りです。心配しなくても、日毎の必要な糧はちゃんと与えられる。これは「主の祈り」ですね。「日毎の糧を今日もお与えください」。これ、「今日も」の「も」は、ない方が、むしろ、意味合い、はっきりするかもしれません。「今日」与えられる、そこが、大切です。確か以前、文語体の時は「我等の日用の糧を今日我等に与え給え」ってそう言ってました。別に今の訳にケチをつける気は毛頭ありませんが、「今日もお与えください」でも、全然いいですが。  それにしても、「宵越しの金は持たないぜ」なんて、そんな生き方、かっこいいですけれども、難しいですね。お金って、貯めることよりもむしろ、気前よく使うことの方が難しいんじゃないでしょうか。今日のこの金持ちだって、貯めたお金を、前澤友作さんみたいに、宇宙旅行したり、ばら撒いたり、って景気良く使うっていうんなら、まだ好感を持てますが、この金持ち、「一休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」だなんて、そんなチマチマ、チョビチョビした使い方、何ともしょぼい、というか、こすいいうか、もう、がっかりです。あの「放蕩息子」みたいに、放蕩の限りを尽くして使い果たす、くらいしてほしかった。お金も、そして、私たちの命も、「使ってなんぼ」です。出し惜しみせずに、お金も自分の命も、気前よく、どんどん使いましょう。

第一朗読  コヘレトの言葉(1:2、2:21-23)
コヘレトは言う。なんという空しさなんという空しさ、すべては空しい。知恵と知識と才能を尽くして労苦した結果を、まったく労苦しなかった者に遺産として与えなければならないのか。これまた空しく大いに不幸なことだ。まことに、人間が太陽の下で心の苦しみに耐え、労苦してみても何になろう。一生、人 の務めは痛みと悩み。夜も心は休まらない。これまた、実に空しいことだ。


第二朗読  コロサイの信徒への手紙(3:1-5,9-11)
(皆さん、)あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。


福音朗読  ルカによる福音(12:13-21)
(そのとき、)群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」

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