桃山教会

年間第17主日説教うるさい友人のたとえ

菅原神父様のブログ「くまたくんの忘れない場所」の音声配信を文字起こしをしてくださったものです。

  • 2022年7月24日
  • 福音箇所
  • ルカ福音書11章1~13節
  • 門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。(ルカ11:9)

聖書のテキストには、「コンチェントリック」と呼ばれる表現形式が、いたるところに用いられています。「コンチェントリック」とは、ごく簡潔に言えば、一番言いたいことを文章の真ん中に持ってきて、その真ん中を挟む前後が、対称的に向き合っている、そんな形です。たとえば、「麓の町から坂道を登って、景色を眺めて、坂道を下って、麓の町に戻った。」という文章だったら、「景色を眺めた」、それが真ん中、で、そして、「麓の町、坂道、登り下り」という言葉がそれを前後から対称的に挟み込んでいる。これではあんまりにもシンプルすぎて、たとえにもならないレベルでしたが、もちろん、実際には、もっと複雑になっています。  その構造を見つけ出すことによって、作者が何を強調したいのかを読み解く、というのが聖書解釈の常套手段で、そうやって、今日の文章を見ていくと、キーワードは「しつこさ」ということになるそうです。日本語訳の「執拗に頼めば」という部分です。この「しつこさ」は「厚かましさ」「恥知らず」「恥も外聞もなく」というニュアンスを含む言葉なんですが、じゃあ「一体何を、厚かましく、恥も外聞もなく無遠慮に、そして、しつこく、やるべきなのか」と言ったら、それはもちろん、「祈る」ということです。今日イエス様は、「うるさい友人のたとえ」という、ちょっと強引で無理のあるたとえ話まで作って、「嫌がられようが、迷惑をかけようが、うるさく、しつこく頼めば、欲しいものはもらえる」そのことを語っています。「ルカ福音書」にはこれとは別に「寡婦と裁判官のたとえ」というのもあります。「極悪非道の裁判官でも、寡婦がしつこく頼み続ければ、もううるさくてかなわないと言って、頼みを聞いてくれるはずだ。」という、こちらも強引なたとえですが、イエス様は再三に渡って、ちょっと無理のあるたとえ話をこしらえてまで、「諦めずに、しつこく神様に求め続けることの大切さ」を、ひたすら、強調されています。  さらに、今日の前半部分では、何を求めたらいいのかさえわからない、そんな人のためなのかもしれませんが、イエス様は、「祈る時にはこう言いなさい」と言って、祈りの言葉まで、そっくりそのまま教えてくれています。いわゆる「主の祈り」ですが。「深く瞑想しろ」「心を込めて唱えろ」とかではなくて、ここでは、ただ単に、「祈る時にはこう言いなさい」と言われている。ここも注目したい点です。  今日の福音全体から伝わってくるのは、「祈りを難しく考える必要など全くない」ということです。必要なのは、テクニックや器用さや集中力とか清らかさ、とかではなくて、「しつこさ」だけです。祈りをやめない、諦めない、ということだけが、たった一つの重要な点です。イエス様はこう言い切っておられます。「誰でも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」また、別の箇所では、「何でも、祈り求めることはすでに叶えられたと信じなさい」とも、おっしゃっています。これらの言葉に信頼して、厚かましく、遠慮せず、何でも、しつこくうるさく、祈り続けましょう。また、どう祈るかわからない時には、「主の祈り」を言いましょう。

第一朗読  創世記(18:20-32)
(その日、)主は言われた。「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。わたしは降って行き、彼らの行跡が、果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう。」その人たちは、更にソドムの方へ向かったが、アブラハムはなお、主の御前にいた。アブラハムは進み出て言った。「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」主は言われた。「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」アブラハムは答えた。「塵あくたにすぎないわたしですが、あえて、わが主に申し上げます。もしかすると、五十人の正しい者に五人足りないかもしれません。それでもあなたは、五人足りないために、町のすべてを滅ぼされますか。」主は言われた。「もし、四十五人いれば滅ぼさない。」アブラハムは重ねて言った。「もしかすると、四十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その四十人のためにわたしはそれをしない。」アブラハムは言った。「主よ、どうかお怒りにならずに、もう少し言わせてください。もしかすると、そこには三十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「もし三十人いるならわたしはそれをしない。」アブラハムは言った。「あえて、わが主に申し上げます。もしかすると、二十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その二十人のためにわたしは滅ぼさない。」アブラハムは言った。「主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度だけ言わせてください。もしかすると、十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その十人のためにわたしは滅ぼさない。」


第二朗読  コロサイの信徒への手紙(2:12-14)
(皆さん、あなたがたは、)洗礼によってキリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。


福音朗読  ルカによる福音(11:1-13)
イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

過去の主日説教

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