桃山教会

年間第16主日説教マルタとマリア

菅原神父様のブログ「くまたくんの忘れない場所」の音声配信を文字起こしをしてくださったものです。

  • 2022年7月17日
  • 福音箇所
  • ルカ福音書10章38~42節
  • 主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。(ルカ10:39)

今日は、マルタとマリアの物語です。「マリアが手伝ってくれない」と不満をぶちまけるマルタに対して、イエス様は、逆ギレしたかのように「あなたは多くのことに心を乱しているけれど、必要な事はただ一つだけだ。マリアは良い方を選んだんだ」そう言い返しています。  不思議なのは、「イエス様の話を聞く」、それが必要なただ一つのこと、そういう話のはずですが、その割には、ルカは、イエス様がこの時どんな話をしたのか、その内容を全く書いてくれていません。実はこれは、福音書の常套手段です。このやり口を使って、福音書が訴えていること、それは、「イエス様が何を語ったのか、何を教えてくれたのか、たとえそれを全部丸暗記して、頭に叩き込んだってしょうがないんだ」、そういうことだと思います。そんなことよりもはるかに大切なこと、「私たちが生きているイエス様と出会ってイエス様と今を共に生きる」、福音書はそこに私たちを招こうとしています。どうやったらイエス様と出会えるか、それにはいろいろあって、もちろん、福音書を読んで、イエス様の教えてくれたこと、なさったことを知る、必要なことです。そして、その他にも、祈りの中で直接イエス様と対話する、典礼や秘跡に与って、特にご聖体においてイエス様とつながる、さらに、日々出会う人の中におられるイエス様と出会う、などなどです。今日の福音も、「マリアとマルタの二人が、イエス様と出会って、イエス様とちゃんと共に生きた」というエピソードです。マリアは、イエス様の話をたっぷり聴いて過ごしました。私たちも忙しかったり疲れていたり、意味がないように思えたりして、普段、なかなかできませんが、このマリアのように、イエス様にじっくり耳を澄ませる、そんな時間、取れたらいいです。一方のマルタだって、イエス様に思いっきり不平不満をぶつけているわけで、これは素晴らしい祈りに違いありません。「私の姉妹は私だけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」って、イエス様に苦情をぶちまけるだけでなく、命令までしています。私たちもこんなふうに素直な思いをイエス様にぶつける祈りができればと思います。  それにしても、今日のこの場面、イエス、マルタ、マリアこの三人の登場人物が織り成す本当に豊かで生き生きとした物語になっています。もし、「キリスト教」とは読んで字のごとく「キリストの教え」のことだなんて思い込んでいたら、ここで生きている物語が鮮やかに語られていることが見えなくなってしまい、「地上の労働よりも神の言葉を優先すべし」みたいな、偏った教訓くらいしか、引き出せなくなってしまいます。「キリストの教え」を学ぶのが「キリスト教」ではなくて、「キリストと出会い、キリストと生きる」のがキリスト教です。大切なのは「キリストの教え」ではなくて「キリストそのもの」です。福音書が「論文」として書かれているのではなくて、「物語」として書かれている意味も、そこにあります。今日のこのマルタとマリアの物語を通して、私たちは、この物語の中を生き生きと生きているイエス様と出会います。そして、私たちも、マルタやマリアのような、ありのままの自分と生きているイエス様との、深く、豊かな関わりに招かれています。

第一朗読  創世記(18:1-10)
(その日、)主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた。暑い真昼に、アブラハムは天幕の入り口に座っていた。目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。アブラハムはすぐに天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏して、言った。「お客様、よろしければ、どうか、僕のもとを通り過ぎないでください。水を少々持って来させますから、足を洗って、木陰でどうぞひと休みなさってください。何か召し上がるものを調えますので、疲れをいやしてから、お出かけください。せっかく、僕の所の近くをお通りになったのですから。」その人たちは言った。「では、お言葉どおりにしましょう。」アブラハムは急いで天幕に戻り、サラのところに来て言った。「早く、上等の小麦粉を三セアほどこねて、パン菓子をこしらえなさい。」アブラハムは牛の群れのところへ走って行き、柔らかくておいしそうな子牛を選び、召し使いに渡し、急いで料理させた。アブラハムは、凝乳、乳、出来立ての子牛の料理などを運び、彼らの前に並べた。そして、彼らが木陰で食事をしている間、そばに立って給仕をした。彼らはアブラハムに尋ねた。「あなたの妻のサラはどこにいますか。」「はい、天幕の中におります」とアブラハムが答えると、彼らの一人が言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」


第二朗読  コロサイの信徒への手紙(1:24-28)
(皆さん、)今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました。世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。


福音朗読  ルカによる福音(10:38-42)
(そのとき、)イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

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