桃山教会

年間第15主日説教よきサマリア人のたとえ

菅原神父様のブログ「くまたくんの忘れない場所」の音声配信を文字起こしをしてくださったものです。

  • 2022年7月10日
  • 福音箇所
  • ルカ福音書10章25~37節
  • 包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。(ルカ10:34)

今日は、お馴染みの「よきサマリア人」のたとえ話です。このたとえ話が読まれると、よく、「この人の行動は素晴らしいけれども、実際にはなかなかここまでできませんよね。」みたいなことが言われます。でも、本当にそうでしょうか。むしろ、実際的に考えてみると、目の前で人が倒れて苦しんでいるわけですから、それを無視して、何もしないで通り過ぎることの方が、はるかに難しいんじゃないでしょうか。  今、ウクライナで戦争が起きていて、多くの方々が、ポーランドなどの隣国に避難しています。日本に避難してくる方もいて、積極的に、その受け入れも行われていて、これを機会に、日本も、難民を受け入れる国に「脱皮」していくんだと思います。でも、日本人があのポーランドの人々のように、「困っている人を助けるのは当たり前だ」という、ああいう姿勢で、避難してきた方を自分の家に住まわせるようなことが、果たしてできるのか、難しいんじゃないか、そういうことが、先日行われた、ある研修会で話題になりました。私は、そんなのは取り越し苦労だと思っています。きっと多くの人たちは、積極的に、自分の家に、避難民を受け入れるに違いありません。それは、綺麗事でも、理想でもなくて、人は皆、目の前で苦しんでいる人を無視して通り過ぎることなど、できないからです。だから、そういう意味では、難しいことではありません。  今日の第一朗読の「申命記」で、モーセはこう言っています。「私が今日あなたに命じるこの戒めは、難しすぎるものではなく、遠く及ばぬものでもない。」今日のサマリア人が、倒れている人に近づいていった動機、それは「憐れに思って」ということです。ご存知のように、これは「腸がちぎれるような思いになって」という言葉です。つまり、義務だから、道徳だから、理想的な生き方だから、宗教的な掟だから、などなど、そんな動機じゃなくて、苦しんでいる人を見て、「腸がちぎれるような思いになって」、もう気がついたら助けていた、という話です。聖書学者の八木誠一さんは、この「よきサマリア人のたとえ」と、マルコ福音4章の「ひとりでに成長する種のたとえ」との共通点を指摘しています。土に種を蒔いたら、ひとりでに芽が出て成長して、実を結びます。それが、天然自然の姿であって、土に種を蒔いて芽が出てこないようにすることの方が、はるかに難しいわけです。それと同じように、苦しんでいる人が目の前にいたら、ひとりでに腸がちぎれるような思いになって近づいていくのが人間の天然自然の姿であって、無視して通り過ぎることの方が、はるかに難しいというわけです。今日出てくる「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉は、ギリシャ語を直訳すると、「あなたはあなたの隣人をあなた自身のように愛するでしょう。」という未来形の肯定文です。命令文ではありません。義務や命令や理想を押し付ける言葉ではなくて、神様が私たちのありのままの姿をそっくりそのまま語った言葉です。義務でも、命令でも、努力目標でも、理想でもなく、私たちは、ひとりでに、腸がちぎれて、倒れている人に近づいていきます。

第一朗読  申命記(30:10-14)
(モーセは民に言った。あなたは、)あなたの神、主の御声に従って、この律法の書に記されている戒めと掟を守り、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主に立ち帰(りなさい。) わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。それは天にあるものではないから、「だれかが天に昇り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。海のかなたにあるものでもないから、「だれかが海のかなたに渡り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。


第二朗読  コロサイの信徒への手紙(1:15-20)
御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。


福音朗読  ルカによる福音(10:25-37)
(そのとき、)ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

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