桃山教会

年間第14主日説教72人を派遣する

菅原神父様のブログ「くまたくんの忘れない場所」の音声配信を文字起こしをしてくださったものです。

  • 2022年7月3日
  • 福音箇所
  • ルカ福音書10章1~12、17~20節
  • 途中でだれにも挨拶するな。(ルカ10:4)

私は、司祭になるのをやめよう、と思ったことも、もう司祭をやめよう、と考えることも数限りないですが、「辞めたい理由」というのは、全て私利私欲で、身勝手な欲望のためであって、決して、私のようなものは到底司祭は務まらない、とか、聖なる教会に仕える者としてふさわしくない、とか、そういったしおらしい思いを抱いて、司祭を辞めた方がいいって、そんなふうに考えたことは、今まで、本当に、全く、ただの一度も、なかったな、と、今日の福音を読んでいたら、ふと、そのことに思い当たって、もう驚いて、感心してしまいました。神学校でも「司祭の資質とは」みたいな話をする先生や先輩もいましたし、また、人から、「あなたは司祭に向いてないよ」と言われたこともありましたが、全然、そういう話は、真に受けてなどいませんでした。人間的な資質とか能力とか、経験とか、適正とか、そんなものはどうでもいいんだ、ってこと。私は、能力、経験、知識、意欲、全部不足してることはよくわかっているし、ハッタリ、ハリボテのインチキ野郎である、って、自覚、十分ありますが、でも、自分が人間的にダメだということと、こういうやつが司祭をやっててはいけない、ということ、全く、結びつけたためしがなくって、改めて考えてみれば、これ、不思議で、一体いつから、こんな思いを抱くようになっていたのかって、今回この事実を発見して、結構、感動しています。  その、今日の福音というのは、72人もの弟子達が派遣されてゆく話なんですが、この72人、決して、「粒ぞろいの精鋭軍団」だなんて、そんなわけはありません。自分のことしか考えてない人、やる気が全然ない人、実は神なんか信じていない人、そういう連中だって、必ず、たくさん、いたはずです。でも、能力や資質の定の、適性のあるなしだの、そんなことには、イエス様も、また、福音を書いたルカも、全く興味も関心もなくて、一切スルーしています。ただ、こう書かれています。「72人は喜んで帰ってきた。」誰が一番成功して誰が使い物にならなかった、みたいな、そんなどうでもいい人間的判断は、一切、書かれていません。とにかく、みんな「喜んで帰ってきた」んです。それは、「72人の弟子たちを通して、本当に働くのは神様だから」そこだけが大切な点であって、突き詰めれば、 司祭もそうですが、「誰がやったっておんなじ。神様がやってくれるんだから」っていう、こっちの側面、これを見失ったら大変です。このことを今日の第一朗読で、パウロがこういう言い方をしています。「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは新しく創造されることです。」割礼の有無と同様に、能力の有無、経験の有無、資質の有無、適正の有無、そんなものは問題ではなくって、大切なのは、新しく創造されること、自分の力に頼るのではなく神様に丸投げする、そこに、人間的な成功だの失敗だのを超えた、「喜んで帰ってくる」、その秘訣があるわけです。  だから、「自分は神にふさわしくない」というような偽りの謙遜は、捨てましょう。神にふさわしくない人など一人もいません。

第一朗読  イザヤ書(66:10-14)
エルサレムと共に喜び祝い、彼女のゆえに喜び躍れ 彼女を愛するすべての人よ。彼女と共に喜び楽しめ 彼女のために喪に服していたすべての人よ。彼女の慰めの乳房から飲んで飽き足り、豊かな乳房に養われ、喜びを得よ。主はこう言われる。見よ、わたしは彼女に向けよう、平和を大河のように 国々の栄えを洪水の流れのように。あなたたちは乳房に養われ 抱いて運ばれ、膝の上であやされる。母がその子を慰めるように わたしはあなたたちを慰める。エルサレムであなたたちは慰めを受ける。これを見て、あなたたちの心は喜び楽しみ、あなたたちの骨は青草のように育つ。主の御手は僕たちと共にあ(る)ことが、こうして示される。


第二朗読  ガラテヤの信徒への手紙(6:14-18)
(皆さん、)このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。 これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。 兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン。


福音朗読  ルカによる福音(10:1-12、17-20)
(そのとき、)主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな。どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。 《しかし、町に入っても、迎え入れられなければ、広場に出てこう言いなさい。『足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ』と。言っておくが、かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む。」 七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」》

過去の主日説教

ミサのページへ戻る