桃山教会

年間第13主日説教サマリア人から歓迎されない

菅原神父様のブログ「くまたくんの忘れない場所」の音声配信を文字起こしをしてくださったものです。

  • 2022年6月26日
  • 福音箇所
  • ルカ福音書9章51~62節
  • 狐には穴があり、空の鳥には巣がある。                            だが、人の子には枕する所もない。(ルカ9:58)

「家庭の友」7月号に、桃山教会の歴史を書くことになって、初代主任司祭のヒューズ神父様について、何人かの方からお話を伺いました。それをもとに、「神父様の熱い思いが桃山教会を生み出した」、そんな原稿を書いたんですが。ところが、締め切り直前になって、過去の教会便りの記事を見つけました。それによると、神父様は、京都の中心の西陣教会で誇りを持って主任司祭をしていたのに、ある時、「今度桃山に新しい教会ができたから、そこに行ってくれ」と転勤命令が出て、「桃山って、一体どこの田舎のジャングルなんだ。そんな場所聞いたこともない」って、かなりショックを受けて、嫌々やってきた、みたいなことが書かれていました。で、私は慌てて原稿を書きかえて、どっちとも取れるような内容にしましたが。ただ、この「桃山ってどこの田舎のジャングルだ」という発言、実際にあったとしても、それはちょっとしたジョーク、だっただろうし、あるいは「行方も知らずに旅立ったアブラハム」に自分をなぞらえての信仰教育の話、だったかもしれません。結局、歴史って、何が本当なのか、もはや知る由もないわけです。  それで、今日の福音なんですが、サマリア人の村でイエス様が歓迎されなかった、するとヤコブとヨハネが、「天から火を降らせて彼らを焼き滅ぼしましょうか」そう言って、イエス様に戒められる。よく「イエスの道は暴力ではなく、愛と忍耐なのです。」などという解説がなされたりしますが。でも、この場面、まず引っかかるのは、「天から火を降らせるだなんて、そんな芸当が、ヤコブとヨハネにできるのか」ということで、どう考えてもできないんだから、これは二人のちょっとしたジョークだったんじゃないでしょうか。だから、「イエス様が戒めた」というのも「暴力はいけませんよ」という真面目な意味じゃなくって、「つまんないこと言ってんじゃないよ」みたいな、ボケに対するツッコミ、そんな会話の流れ、それが実際のところなんじゃないかなと思ってしまいます。  要するに、桃山教会誕生の時のヒューズ神父様の本当の思いも、そして、今日の場面のヤコブやヨハネ、そしてイエス様の本当の思いも、もはや、誰も知る由がない。ただ、書き残された文章を読んで、読者は、その文章と対話して、その対話の中でイエス様と出会う。聖書の文章には霊感が働いていますから、そこで生きているイエス様と深くいきいきと交わることは、充分可能です。歴史的に何が本当だったのかなんてことを遥かに超えた、もっと大切なことを語りかけてくれるのか聖書です。  「家庭の友」7月号、好評発売中です。人からちょっと話を聞いただけでわかったつもりになって、歴史を書いてしまった。でも、文章に残されると、後世の人はそれを信じてしまう。歴史って、こうやって作られちゃうんだって、今回、感じさせられました。でも、それでも文章が残されることには深い意味があります。今日のヤコブとヨハネのつまんないジョーク、を、ちゃんと書き残してくれたルカに、そして、ルカに霊感を与えてくれた神様に感謝です。

第一朗読  列王記 上 (19:16、19-21)
(その日主はエリヤに言われた。)「アベル・メホラのシャファトの子エリシャにも油を注ぎ、あなたに代わる預言者とせよ。」エリヤはそこをたち、十二軛の牛を前に行かせて畑を耕しているシャファトの子エリシャに出会った。エリシャは、その十二番目の牛と共にいた。エリヤはそのそばを通り過ぎるとき、自分の外套を彼に投げかけた。エリシャは牛を捨てて、エリヤの後を追い、「わたしの父、わたしの母に別れの接吻をさせてください。それからあなたに従います」と言った。エリヤは答えた。「行って来なさい。わたしがあなたに何をしたというのか」と。
エリシャはエリヤを残して帰ると、一軛の牛を取って屠り、牛の装具を燃やしてその肉を煮、人々に振る舞って食べさせた。それから彼は立ってエリヤに従い、彼に仕えた。


第二朗読  ガラテヤの信徒への手紙(5:1、13-18)
(皆さん、)自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。 兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。


福音朗読  ルカによる福音書(9:51-62)
イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。イエスは振り向いて二人を戒められた。そして、一行は別の村に行った。
一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。

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