桃山教会

主日の説教キリストの聖体 説教

菅原神父様のブログ「くまたくんの忘れない場所」の音声配信を文字起こしをしてくださったものです。

  • 2022年6月19日
  • 福音箇所
  • ルカ福音書9章11~17節
  • すべての人が食べて満腹した。(ルカ9:17)

 新型コロナ感染拡大のために、洛東ブロックでは、2020年3月に初めて対面のミサが中止になり、その後、今年3月までの2年間で、6回もミサの中止と再開が繰り返されました。その2年間で対面のミサができた期間が、合計11か月間で、残りの合計13か月間はミサができなかった、そういう状況でした。でも幸い、今は対面のミサを続けることができていますし、折りしも、今日は、キリストの聖体のお祝い日ですので、キリスト教生活の源泉であり頂点でもある、と言われているミサについて、お話ししたいと思います。  「聖体の生贄が、ミサが、キリスト教生活の源泉であり、頂点である」という、この言い回しは、「第2バチカン公会議」の「教会憲章」で、すっかりお馴染みになりました。「聖体の中に教会の霊的富の全てが含まれている」そういう言われ方もします。絶えずこういう言葉を思い起こし、ミサに、ご聖体に、立ち返っていきたいものです。  アイフルのCMで、大地真央さんが言っている「そこに愛はあるんか」と言うあのフレーズ、いつも心に響きます。お金に困ってるわけでもないですけれども、アイフルでお金を借りてみたくなるくらい、印象的なCMですが。私たちが、いつでも、今、自分のしていること、考えていること、少し立ち止まって、「そこに愛はあるんか」って自問してみること、大切なんだと思います。でも、「じゃあどこに愛があるんだ」ってなった時、結構、私たち、わからなくなってしまうので、そんな時、難しく考える前に、まず、そこにある「愛」としての「ご聖体」、思い出しましょう。「ご聖体」、そこに「愛」があります。ミサの時はもちろんですが、いつでもイエス様、教会のご聖櫃の中にいらっしゃって、そこに、「愛」がある。教皇ヨハネ・パウロ2世は「教会にいのちを与える聖体」という回勅の中で、こう言っています。「聖体はかけがえのない宝です。ミサ以外の時にも、聖体の前で祈ることによって、私たちは恵みの泉そのものに触れることができます。」聖櫃の中には、物理的に、目に見える、触れる、さらに、食べることができる、そういうものとして、そこに「愛」があります。愛とは何か、神とは何か、考えること、黙想すること、もちろん、それは、尊いことです。ところが、ミサで行われていることは、それとは程遠いこと、実際に、現物として、そこにあるものを、そこにある愛を、見る、触れる、そばにいる、食べる、こういう物理的なことができる。頭や心だけじゃなくて、体で関われる。それが、ご聖体の、文字通り、「醍醐味」です。そして、それは三位一体の神様が、そういうものとして、そこにある「愛」として私、たちのところにいたかった、そのことを、如実に示しています。  私たちは「そこに愛はあるんか」と、自分の思い、言葉、行い、怠りを、キリストの愛に照らして自問しつつ、そこにある「愛」としてのご聖体に、ミサに、いつも立ち返っていきましょう。この「愛」を、「ご聖体」を食べるから、私たちにも、「死んで、復活する」というキリストの「愛」が実現していきます。

第一朗読  創世記(14:18-20)
(その日)いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデク(は)、パンとぶどう酒を持って来た。彼はアブラムを祝福して言った。 「天地の造り主、いと高き神にアブラムは祝福されますように。敵をあなたの手に渡されたいと高き神がたたえられますように。」 アブラムはすべての物の十分の一を彼に贈った。


第二朗読  コリントの信徒への手紙一 (11:23-26)
(皆さん、)わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。


福音朗読  ルカによる福音(9:11-17)
(そのとき、イエスは群衆に)神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」しかし、イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」というのは、男が五千人ほどいたからである。イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。

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