桃山教会

主日の説教聖霊降臨の主日

菅原神父様のブログ「くまたくんの忘れない場所」の音声配信を文字起こしをしてくださったものです。

  • 2022年6月5日
  • 福音箇所
  • ヨハネ福音書14章15~16、23~26節
  • 父は別の弁護者を遣わしてくださる。(ヨハネ14:16)

 皆様、聖霊降臨祭、おめでとうございます。今日の福音に書かれていたように、イエス様は、最後の晩餐の時に、「別の弁護者」、つまり、「聖霊」がやってきて、その聖霊が、永遠に私たちと一緒にいてくれる、そのことを約束してくださいました。さらに、今日の「第二朗読」では、それを裏付けるかのように、パウロが、「私たちのうちには神の霊が、つまり、聖霊が、もう宿っている」そう力強く断言しています。  私たちは、大抵、自分に聖霊が来てくれているようには、どうも思えなくて、何か、もっとすごい幸せな気分に満たされるとか、そういう、もう明らかに聖霊が来てくれてるんだ、みたいな手ごたえ、実感が欲しい、思うかもしれません。でも、肝心な事は、イエス様の約束の実現として、そして、パウロも断言しているように、こんな、今の私の、このしょぼい毎日に、ちゃんと聖霊が来てくれている、そこに、目を開くことではないでしょうか。聖霊がやって来て、今の物足りない自分の人生を変えてくれる、もっと感動的な毎日にしてくれる、そんなことではなくて、今のこの私のこの毎日こそが、もうそっくりそのまま、聖霊に満たされた恵みの時です。「幸せの青い鳥」はどこか遠くではなくて、実はもうここに、青い鳥はいる、そういう話もあるし、仏教の賛歌には「水の中にいて渇を叫ぶが如くなり」という一節があります。自分が水の中にいるのに、「喉が渇いて死にそうだ。水をくれ」と叫んでいる、それがあなたの姿なんですよ、という歌です。つまり、救われていないから苦しいんではなくて、救われているのに気がついていないから苦しいんですよ、そんな意味合いです。とにかく、不平不満はひとまず置いて、「もう聖霊が私を満たしている」、そこから出発しましょう。そこに立ち戻りましょう。  それにしても、今日は、復活節の最後の日で、「こうして聖霊が降ってきて、これで過越の神秘が完成した」と言われるんですが、振り返ってみると、人間側は本当に何一つ立派なことなどしてこなかった。逆にろくでもないことばかりしてきた。神の子イエス様の教えを理解しないし、イエス様を裏切るし、十字架につけて殺すし、その後も弟子たち、逃げ隠れしてばかりだったし、功徳になるようなことなんて、なんにもしていないわけです。さらに、歴史のはじめから振り返っても、食べてはいけないりんごをかじるし、堕落するし、神様との約束は破りまくる、って、「旧約聖書」、どのページを開いても、人間は神様の顔に泥を塗り続けてきた。それにもかかわらず、今日、めでたく聖霊が降ってきて、過越の神秘が完成しました。まさに、一方的な神様の恵みです。もう、「私が良い事したからご褒美に聖霊が来てくれた」なんてことでは、ありません。だから、聖霊降臨は過越の神秘の完成と言われる、けれども、私たちにとっては、この「完成」こそが、新しい始まりになるに違いありません。  今日、教会も、そして、この私も、聖霊に満たされました。聖霊とともに、一日一日歩んでゆきましょう。

第一朗読  使徒言行録(2:1-11)
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」


第二朗読  ローマの信徒への手紙(8:8-17)
(皆さん、)肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。


福音朗読  ヨハネによる福音(14:15-16 23-26)
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」

過去の主日説教

ミサのページへ戻る