桃山教会

主日の説教主の昇天

菅原神父様のブログ「くまたくんの忘れない場所」の音声配信を文字起こしをしてくださったものです。

  • 2022年5月29日
  • 福音箇所
  • ルカ福音書24章46~53節
  • 祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。(ルカ24:51)

 今日は「主の昇天」です。イエス様が天に昇られた。私たちはここからどんなメッセージを受け取るでしょうか。「イエス様が天に昇って行って、何かひこうき雲のようにそこに一筋の道ができた。その道で天と私たちがつながった。」そんなイメージもあります。私たちを絶望的な気持ちにさせるものに、孤独や閉塞感があります。「自分は誰ともつながっていない。完全に一人ぼっちだ。私を愛してくれる人なんか一人もいない。」という孤独。そして、「どうしていいかわからない。展望がひらけない。夢も希望も何もない。」という閉塞感。そういう、孤独にしても閉塞感にしても、「閉じ込められていて、そこから出られない」、そんな苦しみです。「昇天」というのは、「そこから私たちを連れ出してくれる道が、イエス様によって開かれた」、そんな感じもあります。  大阪の西九条に幅100メートルほどもある、安治川という川があって、向こう岸に渡りたくても、右を見ても左を見ても、全然橋がなくて、「ああもうここから逃れられない。閉じ込められたんだ。」みたいな絶望感を模擬体験できるんですが、でも、なんとそこには、川底に、歩行者専用の細いトンネルがあるんです。エレベーターで地下にくだって、黒黒と水をたたえていたあの川の底を、こんな細いトンネルで、100メートルも歩いてゆく。しかも、これは戦時中にできた古いトンネルで、心霊スポットとしても有名らしくて、ちょっと恐怖心を抱きます。でも、このトンネルをくぐり抜けて、また、エレベーターを上って、反対側の岸辺から振り返って川を眺めると、「絶対来れないと思っていたこっち側に来れたんだ。助かったんだ。」という、「救いの喜び」をも、模擬体験できます。イエス様は、神であり人であるから、「天と地をつなぐ道」なので、私たちを天の国に連れ出してくださいます。地上的なものだけに希望を置いていたら、私たちはいつしか、閉じ込められてしまいますが、でも、必ずそこから連れ出してくれる、イエス様という道があるわけです。そして、その道が開かれたのは、イエス様の「十字架の死」、そして、「復活」、「昇天」です。天につながる道ができたから、イエス様と一緒にその道を通って、孤独からも、閉塞感からも、私たちは解放されます。  今日の第二朗読の「ヘブライ書」には、こう書かれていました。「イエスは、垂幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道を私たちのために開いてくださったのです。」表現が独特で分かりづらいですが、神殿の一番奥の至聖所の前に、「この先立ち入り禁止」という垂れ幕があって、誰もそこに入れなかった。でも、その垂れ幕、イエス様が十字架で死んだ時に、二つに避けました。「この垂れ幕こそが、キリストの体、肉だったんだ。」そういう話なんですが、これによって「通行止め」が解除されて、「神様の所への道が開かれた」と、「ヘブライ書」は昇天を、こんなふうに、独特に語っているといえます。  私たちがイエス様に呼びかける時、祈る時、いつも、天と私との間に道がつながるということ、そして、どんな孤独にも閉塞感にも、絶望にも、一瞬のうちに、キリストの光が差し込むということ、心に留めていましょう。

第一朗読  使徒たちの宣教 使徒言行録(1:1-11)
テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」


第二朗読  ヘブライ人への手紙(9:24-28、10:19-23)
キリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださった(のです。)また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。 それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。更に、わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。


福音朗読  ルカによる福音 ルカ福音書(24:46-53)
そのとき、イエスは弟子たちに言われた。聖書には「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」 イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。

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