桃山教会

主日の説教復活節第4主日説教 イエスと父である神は一つ

菅原神父様のブログ「くまたくんの忘れない場所」の音声配信を文字起こしをしてくださったものです。

  • 2022年5月8日
  • 福音箇所
  • ヨハネ福音書10章27~30節
  • 私の羊は私の声を聞き分ける。(ヨハネ10:27)

よい羊飼いであるイエス様が、羊である私たちに永遠のいのちを与えてくださる。ヨハネ福音書はそれを伝えようとしています。この「永遠のいのち」、キリスト教の中心的なメッセージです。  三重県の教会にいた頃、教会学校の黙想会があって、その時、「永遠のいのちって何だと思いますか」、そんな質問をしたら、ある男の子がこう答えました。「俺が友達と一緒に生きること。それが永遠のいのちだ。」もう見事な答えです。「永遠のいのち」、難しく考える必要はありません。私が今生きているこのいのち、このいのちの他に「永遠のいのち」があるわけではありません。いのちは全部つながっていて、生きるすべてのいのちは、たった一つの「永遠のいのち」です。永遠ではないいのち、なんてものはどこにもありません。だからわざわざ「永遠の」って別につけなくったっていいわけです。「人が10人いるからいのちが10個ある」そのような捉え方は現代人の錯覚です。私のいのちも、あなたのいのちも、彼のいのちも彼女のいのちも、鳥のいのちも花のいのちも、この世のいのちもあの世のいのちも、全部つながっているたった一つの「永遠のいのち」。いのちといったらそのいのちだけです。部分的ないのち、なんてあり得ません。「私がいのちを持っている」のではなく「いのちが私を生きて」います。トランスパーソナル心理学者の諸富祥彦さんはこのことを「いのちが私している」、そんな風に表現しています。いのちが桜している。いのちが雀している。いのちがあなたしている。そして、いのちが私している。聖書で言えば、「生きているのはわたしではなく、キリストがわたしを生きているのです。」というガラテヤ書の言葉になると思います。  ただ、今日の最後でイエス様、「わたしと父とは一つである」、そう言ってますが、「一つ」というのは、こういう意味で一つです。ごちゃまぜになっちゃうんじゃなくて、イエス様はイエス様、父は父、それぞれの個性は絶対になくならない「一つ」です。だから、私が私であること、私が私を生きること、すごく大切だし、と言うか、私が私を失ったら宇宙が消えてしまうくらいの話です。「天上天下唯我独尊」とか「宇宙が私で私が宇宙だそうだ」とか、よくお寺の掲示板に貼ってあります。でも、もし、たったひとつのいのちから勝手に一部分だけを切り取って、「この部分が私だ」なんて思うのは、ひどい勘違い。そして、私たちがよくしている勘違いです。いのちを、宇宙を、私という部分と、私以外の部分とに、バッサリ二つつに分けてしまう、恐ろしい勘違い。この勘違いから私たちを解放してくれるのが、今日のイエス様の言葉です。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠のいのちを与える。」イエス様との交わりを生きれば、永遠のいのち、与えられます。「ヨハネ福音」には、ずばり、「永遠のいのちとはイエスキリストを知ることです。」そんな単刀直入な言葉もあります。  やっぱり、さっきの男の子の言葉、「俺が友達と一緒に生きること。それが永遠のいのちだ。」その通りだと思います。私たちが、友達のイエス様と一緒に生きること。それが永遠のいのちです。

第一朗読  使徒たちの宣教 使徒言行録(13:14、43-52)
その日、パウロとバルナバはペルゲから進んで、ピシディア州のアンティオキアに到着した。そして、安息日に会堂に入って席に着いた。 集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神をあがめる改宗者とがついて来たので、二人は彼らと語り合い、神の恵みの下に生き続けるように勧めた。 次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た。しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した。そこで、パウロとバルナバは勇敢に語った。「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠のいのちを得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。主はわたしたちにこういのちじておられるからです。 『わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、あなたが、地の果てにまでも救いをもたらすために。』」 異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして、永遠のいのちを得るように定められている人は皆、信仰に入った。こうして、主の言葉はその地方全体に広まった。ところが、ユダヤ人は、神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々を扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、その地方から二人を追い出した。それで、二人は彼らに対して足の塵を払い落とし、イコニオンに行った。他方、弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。


第二朗読  ヨハネの黙示 黙示録(7:9、14-17)
わたしヨハネが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立っていた。 長老の一人がわたしに言った。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて、昼も夜もその神殿で神に仕える。玉座に座っておられる方が、この者たちの上に幕屋を張る。彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない。玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、いのちの水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである。」


福音朗読  ヨハネによる福音 ヨハネ福音書(10:27-30)
そのとき、イエスは言われた。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠のいのちを与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである。」

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