桃山教会

主日の説教夜明けの湖での食事

菅原神父様のブログ「くまたくんの忘れない場所」の音声配信を文字起こしをしてくださったものです。

  • 2022年5月1日
  • 福音箇所
  • ヨハネ福音書21章1~19節
  • 私の羊の世話をしなさい。(ヨハネ21:16)

 今日は、夜明けの湖を舞台にした情感たっぷりのシーンで、映画の印象的なワンカットのような、あるいは、心惹かれる一枚の絵画のような、そっくりそのまま心にしまっておきたい、そんな情景です。弟子たちが、静かな湖畔で、イエス様と一緒の濃厚な時間をゆっくり過ごした、その出来事が、こんなに豊かに描かれているから、もうこれは、解説など、しない方がいいのかもしれません。しっとりとした静寂が漂っています。でも、突然その静寂を破るバシャーン、ジャブーンという音。ペトロが湖に落ちた音です。例によって、聖書は、なんで落ちたのか、そんな理由なんて書きません。聖書のいいところです。驚いて落っこちたのか、裸を隠そうとしたのか、イエス様のところに行こうと焦ったのか、あるいは、「優勝して道頓堀に飛び込む」みたいに感極まって飛び込んだのか、知る由もありませんが、とにかく、バシャーンという音、響き渡りました。  臨済宗僧侶の松原哲明さんが本に書かれてましたが、座禅を知っている人が悟りを開く時って、突然、何の前触れもなく悟ってしまう、そういうものみたいですが、その時って、静けさの中、何らかの音が聞こえて、たとえば、瓦のかけらが屋根から落ちたとか、不意の音がきっかけで忽然と悟りを開いてしまう、そういうケースが結構多いそうです。この夜明けの湖、静けさの中、突然響き渡ったバシャーンというペトロが落ちた水の音。哲明さんが言うには「古池や蛙飛び込む水の音」これは芭蕉の悟りで、かえるの飛び込んだドボンという音は、爆弾どころではない、大宇宙の爆発、だったそうです。きっと、悟りを開くって、失ってしまったものともう一度出会う、「再会」なんだと勝手に思ってますが、まさに、今日のこの場面、死んでしまったイエス様と再会した。「宗教」とはラテン語の「再びつなぐ」という言葉で、だから、宗教は「再会」の物語です。神様と再会、他者と再会、そして、失ってしまった私自身と再び出会う。こういうことは心理学とか、スピリチュアル本とかでも、散々言われてますけれども、でも、私たちにとって、決定的なのは、イエス様の十字架という、まさに大宇宙の中心的出来事、そして、それと切り離せない、いのちの食べ物「ご聖体」です。今日の場面、イエス様が、食べ物を用意してくれているという点、見逃してはなりません。キリストの十字架とご聖体。これで私たちは、もう既に、神様と、他者と、そして、私と、再び出会います。心理学をはるかに超える神秘です。悟りって「開く」という言い方が絶妙です。開かなくても、扉の向こうにはもうちゃんとある、ということです。  イエス様も、「たたけば門は開かれる」そう言ってます。「力ずくでこじ開けろ」じゃなくて「たたきなさい」。一番いいタイミングで向こう側から開けてくれるから、そんな感じです。でも、やはり、たたくことも大切なわけですから、聖書に出てくる「うるさい友人」や「しつこいやもめ」を見習って、しつこく祈り続けましょう。そして、もちろん、ご聖体、食べ続けましょう。

第一朗読  使徒たちの宣教 使徒言行録(5:27-32、40-41)
そのとき、大祭司は使徒たちに尋問した。「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。それなのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている。」ペトロとほかの使徒たちは答えた。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます。」議員たちは、イエスの名によって話してはならないと命じたうえ、使徒たちを釈放した。それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行った。


第二朗読  ヨハネの黙示 黙示録(5:11-14)
わたしヨハネは見た。そして、玉座と生き物と長老たちとの周りに、多くの天使の声を聞いた。その数は万の数万倍、千の数千倍であった。天使たちは大声でこう言った。「屠られた小羊は、力、富、知恵、威力、誉れ、栄光、そして賛美を受けるにふさわしい方です。」また、わたしは、天と地と地の下と海にいるすべての被造物、そして、そこにいるあらゆるものがこう言うのを聞いた。「玉座に座っておられる方と小羊とに、賛美、誉れ、栄光、そして権力が、世々限りなくありますように。」四つの生き物は「アーメン」と言い、長老たちはひれ伏して礼拝した。


福音朗読  ヨハネによる福音 ヨハネ福音書(21:1-19)
その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。

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