桃山教会

主日の説教復活節第2主日説教 見ないで信じる者は幸い

菅原神父様のブログ「くまたくんの忘れない場所」の音声配信を文字起こしをしてくださったものです。

  • 2022年4月24日
  • 福音箇所
  • ヨハネ福音書20章19~31節
  • あなたの手を伸ばし、私のわき腹に入れなさい。(ヨハネ20:27)

自分が死んで復活したら、最初に誰に会いたいでしょうか。イエス様は、真っ先にマグダラのマリアに現れました。そして、マリアが弟子たちに、イエスの復活を伝えますが、弟子たちはそれを信じませんでした。  信仰においては「聞いて信じる」ということが肝心ですが、弟子たちには「聞いても信じない」という段階があったわけです。その後で、イエス様は、今度は直接、弟子たちに現れて、「なんでマリアの言ったことを信じなかったんだ」と弟子たちを諫めるわけです。「そんな嫌味なことはしないで、最初から弟子たちに現れればいいじゃないか」と言いたくなりますが、でも、これによってイエス様は、弟子たちに「聞いても信じない」という貴重な体験をさせたんだと思います。「百聞は一見に如かず」と言われますが、信仰においては、「見て確かめる」よりも、「聞いて信じる」が大切です。なぜなら、神様は目に見えないので、「見て確かめる」ということができないからです。だから、今日の福音で、イエス様も「見ないで信じるものは幸いである」とおっしゃいます。「見て確かめたら信じてやる」というのは、結局信仰でも何でもありません。「見ないで信じる」からこそ信仰です。  ただ、一方で、キリスト教は、ひたすら「神様は見えない」というだけじゃありません。それどころか、目に見えない神様が、目に見えるイエス様になってくださった、この神様の愛と慈みこそ、キリスト教の核心です。そして、その、人間になった神様であるイエス様が、どう生きたのか、どう死んだのか、どう復活したのか、それを伝えてくれたのは、あの信じなかった弟子たちです。弟子たちが、イエス様を伝えてくれたおかげで、私たちは、「聖書を読む」ということも含めて、イエス様のことを、今も「聞く」ことができます。これは決して当たり前のことではありません。「イエス様が現れてこの目で見える」というのも奇跡かもしれませんが、「イエス様のことをこの耳で聞くことができる」、「福音書で読むことができる」、このことだって、間違いなく、奇跡的な恵みです。  あの「ルカ福音書」16章の、金持ちとラザロのたとえ話で、地獄に堕ちた金持ちが「自分の兄弟のところにラザロを遣わしてください。そしたらみんな回心するでしょうから」そう頼んだ時、「聖書の言葉を聞かないんなら、死者が生き返ったのを見たって無駄だろう」、そう言われちゃってます。私たちに求められているのは、伝えられたことを、そして、聖書の言葉を、「聞いて信じる」ということです。もちろん、私たち、そう素直じゃありませんから、「聞いても信じない」という、弟子たちと同じ段階を、必ず体験します。でも、私たちは知っています。「信じない」という心の奥底には、もう既に、「信じたい」という小さな灯が宿っています。  信仰は、「不信仰から始まり、不信仰を道連れに歩む、豊かな旅」です。その歩みの中で、「信じたい」という私たちの小さな灯を、神様は、御心のままに、成長させてくださいます。だから、「聞いて信じる」。地道に、心がけていきましょう。

第一朗読  使徒たちの宣教(5:12-16)
そのころ、使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われていた。一同は心を一つにしてソロモンの回廊に集まっていたが、ほかの者はだれ一人、あえて仲間に加わろうとはしなかった。しかし、民衆は彼らを称賛していた。そして、多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった。人々は病人を大通りに運び出し、担架や床に寝かせた。ペトロが通りかかるとき、せめてその影だけでも病人のだれかにかかるようにした。また、エルサレム付近の町からも、群衆が病人や汚れた霊に悩まされている人々を連れて集まってきたが、一人残らずいやしてもらった。


第二朗読  ヨハネの黙示録(1:9-11、12-13、17-19)
わたしヨハネは、あなたがたの兄弟であり、共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっている者である。わたしは、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた。ある主の日のこと、わたしは〝霊〟に満たされていたが、後ろの方でラッパのように響く大声を聞いた。その声はこう言った。「あなたの見ていることを巻物に書いて、アジア州にある七つの教会に送れ。」わたしは、語りかける声の主を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見え、燭台の中央には、人の子のような方がおり、足まで届く衣を着て、胸には金の帯を締めておられた。わたしは、その方を見ると、その足もとに倒れて、死んだようになった。すると、その方は右手をわたしの上に置いて言われた。「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。さあ、見たことを、今あることを、今後起ころうとしていることを書き留めよ。」


福音朗読  ヨハネによる福音(20:19-31)
その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

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