桃山教会

主日の説教受難の主日(枝の主日)説教

菅原神父様のブログ「くまたくんの忘れない場所」の音声配信を文字起こしをしてくださったものです。

  • 2022年4月17日
  • 福音箇所
  • ヨハネ福音書20章1~9節
  • 彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。(ヨハネ20:6)

 皆様、主のご復活、おめでとうございます。新しく洗礼を受けた方、おめでとうございます。  パウロが「ローマ書」9章で、こう言っています。「わたしたちは洗礼によってキリストとともに葬られ、その死にあずかるものとなりました。」私たちが結ばれているのは、キリストの「死」です。  中高年の男性が、人生に夢も希望も持てず、他人を巻き添えにして自殺を図る、そのような事件が立て続けに起こりました。夢も希望も持てず絶望してしまう。こういうこと、誰だって同じです。年老いて、病み衰えて、独りぼっちで死んでゆく。この絶望は、この世に生まれてきた、すべての命の宿命です。だから、これも、パウロが「1コリント書」15章で言っている言葉、「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めなものです。」私たちは、幸せにすがろうとしますが、その幸せが地上的なものである以上、それは、究極的なよりどころになってくれません。ここでいう「地上的な幸せ」というのは、富や権力、成功や名誉、健康や快適、絆や友情、生きがいや感動、自尊心、充実感、そういうものは、もちろんですが、「悟りの境地」だとか「救われている喜び」だとか、そういう宗教的な自己満足だって、結局は地上的な幸せに過ぎない。ここに気づいていることは、大切だと思います。でも、地上的な幸せだからといって、それが無意味だとか、求めちゃダメだとか、そうではなくて、むしろ、真剣に求めるべき大切なものだし、だからこそ、それらが失われた時にだけ見えてくる、それでも失われないもの、復活って、きっと、そこにあります。  今日の「聖書と典礼」で、イエズス会の川中仁神父様が書かれているように「復活とは死をも超える命があるということ。また、いかなる絶望をも超える希望があるこということ」ですし、でも、復活を悟っちゃったから、もうすべての苦しみから解放された、なんてことではなくて、これは、今日は、パクリばかりですが、森一弘司教様が、説教集の中でこう言っておられます。「苦しみは苦しみとして、闇は闇として、悲しみは悲しみとして、私たちが、極みまで体験しなければならないという現実を、そのまま肯定しながら、その極みの中に現れてくる希望、それが復活なのです。」私たちは、いろいろ失いながら、年老いて、病み衰えて、孤独と不安の中で死んでゆく。でも、実は、夢も希望もない、その絶望の極みに、復活は開けます。夢も希望もないから絶望だ、じゃなくて、夢も希望もない絶望を、見出した時に出会うのが、復活です。  イエス様、苦しんで、惨めに、何の威厳も美しさもなく、十字架上で独りぼっちで死んでいった。そんな、この、自分の人生が復活だということに、私たちの目は、開きます。十字架の死の中に、復活が生きています。  主のご復活、おめでとうございます。

第一朗読  使徒言行録(10:34、37-43)使徒たちの宣教
その日、ペトロは口を開きこう言った。「あなたがたはこのことをご存じでしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です。人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが、神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対してです。そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」


第二朗読  使徒パウロのコロサイの教会への手紙(3:1-4)皆さん、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。


福音朗読  ヨハネによる福音(20:1-9)週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。

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