桃山教会

主日の説教四旬節第5主日説教 姦通の女

菅原神父様のブログ「くまたくんの忘れない場所」の音声配信を文字起こしをしてくださったものです。

  • 2022年4月3日
  • 福音箇所
  • ヨハネ福音書8章1~11節
  • かがみ込み、指で地面に何か書き始められた。(ヨハネ8:6)

今日は、「不倫をした女性が危うく殺されかける」という、緊迫の場面でした。人はなぜ不倫をするんでしょうか。今でも、不倫が発覚するとたくさんの代償を払わなければなりませんが、当時のイスラエルでは、不倫はまさに「命がけ」のことでした。でも、この女性は、愛する人と一緒に過ごす、それを選びました。正しくないとわかっていても、石打ちにされるとわかっていても、それでも、愛する人の方を選ぶ。「そのために、生まれてきた。すべてを失っても構わない。」そう思わせる力があるから、古今東西、不倫、なくなりません。今日の、この場面。「この女性が、しおらしく、恐れおののいていた。自分の惨めさに、打ちひしがれていた。」そんな解説もありますが、どうでしょうか。むしろ、「もうすっかり覚悟はできていた。後悔なんかしていない。肝が据わっていた。」そんな趣きだったのかもしれません。女性の態度については何とも書かれていませんが、ただ、この女性のたった一つのセリフは、「主よ、誰もいません」というものでした。  イエス様の、文字通りの「神対応」によって、ピンチは切り抜けられて、誰も石を投げずに立ち去ってしまい、ただ、その女とイエスだけが、ポツネンとその場に残された。この、すごい霊的静寂に満ちた情景について、アウグスティヌスの有名な言葉があります。「最後に残ったのは、あわれな女とあわれみであった。」「惨めさとあわれみの二人が残った。」という訳もあります。教皇様もこの言葉に深く感銘されて、「あわれみあるかたと、あわれな女」という、使徒的書簡を、書かれています。惨めなこの私、そして、「あわれみ」であるイエス様、二人だけが、世界の中心に、残されている。きっとこれは、先週の、「放蕩息子」が、父親の元に帰った、あのレンブラントの絵のような、父親と息子、あの二人、とも、通じ合います。「あわれみ」は、「さげすみを含んだ上から目線」なんかじゃなくて、あわれみある方、イエス様は、「愛するこの私と一緒にいたい。そのために生まれてきた。全てを失っても構わない。石を投げつけられて殺されても、それでもこの私と一緒にいたい。」そんな命がけの、私への愛が「あわれみ」です。実際イエス様、私のため、十字架で死んでくださいました。「不倫」と呼ばれても、人が愛にすべてをかけるのは、愛こそが、自分を孤独から開放し、全宇宙から肯定されているような命の充実をもたらす出来事だからです。キリスト教の愛は「アガペーの愛」「博愛」、そうも言われますが、でも、人は、「他の人と同じようにしか愛してもらえない」とか、「私よりももっと愛している人が別にいる」とか、そんな愛で愛されたとしても、決して満たされません。神の私への愛は、そんな中途半端な愛じゃなくて、「あなただけ。他の誰かじゃ絶対にだめ。あなたのために死ぬ。」そんな愛。キリスト教は決して、「エロスの愛」を否定していません。全能の神様だから、すべての人を「たった一人のあなた」として愛することができます。こうして、私とイエス様、「惨めさとあわれみ」、二人だけが最後に残ります。  四旬節も終盤です。私に込められた、「神の愛」を黙想して過ごしましょう。 

第一朗読  イザヤの預言(43:16-21)主はこう言われる。海の中に道を通し恐るべき水の中に通路を開かれた方戦車や馬、強大な軍隊を共に引き出し彼らを倒して再び立つことを許さず灯心のように消え去らせた方。初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に道を敷き砂漠に大河を流れさせる。野の獣、山犬や駝鳥もわたしをあがめる。荒れ野に水を、砂漠に大河を流れさせわたしの選んだ民に水を飲ませるからだ。わたしはこの民をわたしのために造った。彼らはわたしの栄誉を語らねばならない。口には喜びの歌が浮かんだ。


第二朗読  使徒パウロのフィリピの教会への手紙(3:8-14) 皆さん、わたしは、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。


福音朗読  ヨハネによる福音(8:1-11)そのとき、イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」

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